Do you really dream of jumping sheep?
(ども 火星人です。レイシストお断り)
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19世紀はじめのイギリスの詩人です。
26才ぐらいでなくなりますぅた。
イギリスではたぶん結構、有名だと思います。

アガサ・クリスティのポワロ・シリーズのどれかで、、「ヒッコリー・ロードの殺人」だったと思ったけど、他のと話が混じっているかも。
ある大学内で「ききこみ」をするポワロが、キーツを研究しているという学生と話をします。
で、わざと、キーツの作品のふりして他の人の詩を口にしたのに、その学生は気がつきませんでした。
偽学生だと言うことがわかりました。実は警察の潜入捜査官だった、なんていうのがあったのだ。
だから、たぶん結構有名なはず。ww

ぼくとしては、ダン・シモンズの「ハイペリオン」シリーズで有名です。(日本語が変だよ)
これらは、キーツの叙事詩「ハイペリオン」と「エンディミオン」をベースにしたもので、ハードカバーで4作(文庫では、4×2冊)、それも物凄い厚さで、ちょっと読むのをはばかりますが、読み出すととまりません。
出だしは、まあ、少し入りにくいけど、ある程度いくと、寝る時間はおろか、ご飯を食べる時間も惜しい。トイレなんか我慢しやがれ!
・・・失礼しますぅた。

最後の4作目の残りページが少なくなってくると、悲しくなって泣けてきました。
もう読むところがなくなるからです。

というわけで、キーツの詩を載せます。
(下のやつは、原文)
しかし、「馥郁たる」なんて言葉、生まれてこのかた、いちども使ったことがないなあ。


つれなき美女

「どうしたのだ、見事な鎧に身を固めた騎士よ、
かくも独り寂しく蒼ざめてさ迷っているのは?
湖の菅の葉は枯れ果て、
もう鳥も鳴かなくなったというのに!

どうしたのだ、見事な鎧に身を固めた騎士よ、
そんなに憔悴し、悲しみに打ちひしがれているのは?
栗鼠の穀倉には蓄えが満ち溢れ、
収穫の時ももう終ってしまったというのに!

百合のように蒼白な君の顔は、
苦悩と熱病のような汗で、じっとりと濡れている。
薔薇色に輝いていたと思われる君の頬も、
今は色褪せ、見る影もないではないか」

「私は緑の草地で一人の美女に出会った、
その美しさは比類なく、そうだ、まさに妖精の娘といえた。
その髪は長く垂れ、その足は軽やかで、
その眼は妖しげな光を湛えていた。

私は花輪を編んで彼女の頭を飾ってやり、
馥郁たる花の腕環も腰帯も作ってやった。
彼女は、私を恋しているかのように、
私の眼をじっと見つめ、呻き声をあげた。

私は彼女を馬に乗せて静かに駈けたが、
終日私の眼には何も入らなかった、・・・・・・・
彼女横ざまに腰をおろし、
絶えず妖精の歌を口ずさんでいたからだ。

彼女は甘い草の根や、
野生の蜜や甘露を探してくれ、
異様な言葉で私に囁いた、
『わたしは貴方を愛しています・・心から』と。

彼女は私を魔法の洞窟につれてゆき、
涙を流しては溜息をついた。
私はその妖しい光を湛えた眼を、
閉ざしてやった、・・四度、接吻をくり返しながら。

やがて彼女は私を眠らせてくれた、
私は夢を見た。・・・・だが、なんと悲しいことか、
それがこの冷たい丘の中腹で私が見た
最後の夢になってしまったのだ。

夢の中には蒼白い王侯や武者たちが現れた、
いずれも死人のように蒼ざめていた、
そして、叫んでいた、----『あのつれない美女が
お前を虜にしてしまったのだぞ!』と。

暗がりの中に、死の形相も凄まじい彼らの唇が浮かび、
大きく口を開いて凄惨な警告の叫びをあげていた。
私は眠りから覚め、気がつくと、
この冷たい丘の中腹にいるのが分かったのだ。

私がこのあたりから去ろうとせず、
独り寂しく蒼ざめてさ迷っているのはそのためなのだ、
湖の菅の葉は枯れ果て、
もう鳥も鳴かなくなってはいるのだが」

岩波文庫「イギリス名詩選」より

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John Keats


O WHAT can ail thee, knight-at-arms,
Alone and palely loitering?
The sedge has wither’d from the lake,
And no birds sing.

O what can ail thee, knight-at-arms!
So haggard and so woe-begone?
The squirrel’s granary is full,
And the harvest’s done.

I see a lily on thy brow
With anguish moist and fever dew,
And on thy cheeks a fading rose
Fast withereth too. .

I met a lady in the meads,
Full beautiful?a faery’s child,
Her hair was long, her foot was light,
And her eyes were wild.

I made a garland for her head,
And bracelets too, and fragrant zone;
She look’d at me as she did love,
And made sweet moan.

I set her on my pacing steed,
And nothing else saw all day long,
For sidelong would she bend, and sing
A faery’s song.

She found me roots of relish sweet,
And honey wild, and manna dew,
And sure in language strange she said?
“I love thee true.”

She took me to her elfin grot,
And there she wept, and sigh’d fill sore,
And there I shut her wild wild eyes
With kisses four.

And there she lulled me asleep,
And there I dream’d?Ah! woe betide!
The latest dream I ever dream’d
On the cold hill’s side.

I saw pale kings and princes too,
Pale warriors, death-pale were they all;
They cried?“La Belle Dame sans Merci
Hath thee in thrall!” .

I saw their starved lips in the gloam,
With horrid warning gaped wide,
And I awoke and found me here,
On the cold hill’s side.

And this is why I sojourn here,
Alone and palely loitering,
Though the sedge is wither’d from the lake,
And no birds sing.


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またサボっちまったい。明日(ってもう今日だけど)は書きます。はい。

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自分のHPのいろんなページのBGMに、よくMIDIを借りていたんだけど、さすがに借りてばっかりでは良くないと思って、今年に入ってから、自分でも作ってみるようになったわけです。

まあ、ソフトは去年フリーのソフトを(sakuraというやつ)DLしていたけど、音楽の勉強をしたことが無いから、結構大変、ていうかまず話にならん状態。

楽譜については、無料でDLできる海外のサイトがあって(海外でそういうのが無料というのは珍しいけど、基本的にはピアノなんかを勉強する人のためのサイトらしい)、なんでも揃っているというわけではないけど(親切な人が楽譜を提供しているという感じだし)、そこからちょこちょちょことDLしているわけです。

んで、最初に作ったのが、「きらきら星変奏曲」。
易しそうだから(なんか優しそうだしw)、だったんだけど、いや予想外に長い。
アンド後ろの方は結構難しい。

で、作り始めのころは曲の途中でテンポを変えたり、音を大きくしたり小さくしたり、音の長さ(同じ四分音符でも、みじかくきったりぎりぎりまでのばしたり)を変えたりすることができなかったのだ。
そのような機能がわからなかったからです。

一旦最後まで打ち込んでから、また直したんだけど、作り方がへたくそデータがやたら膨大になってしまって、しかも見づらくて、ちょと大変。
最後には、整数オーバーフローとかでて、途中で直しをあきらめる始末。

それでも、「下手でも聴ける」系の良い曲なので、そこそこ聴けるのではないだろうか。(爆)

第2変奏だけは結構気に入っているわけですが。(しっかし下手なMIDIだぽこ)


第2弾は、「G線上のアリア」。

正確には、管弦楽組曲第3番の(第2曲)「アリア」で、「G線上のアリア」というのはあとから編曲されたものなんだけど、
そいで、(楽譜も管弦楽用だったし)まずは管弦楽の音でやってみた。
ところが、音が難しいのだにゃあ。
音色がひどいのです。ビブラートがナチュラルでかかってしまうし、ざわざわした妙にうるさい音になる。

ここで覚えたのがクレッシェンドとデクレッシェンドの機能。出だしの部分などで使ってます。

しかし、やっぱり音が悪い。ということで、音色を変えてみた。
するとどうでしょう。なかなか綺麗な音だなと思ったら。途中で「これは不協和音か??」ってな音がガンガン出てくる。
ていうんでパートを減らしてみましたバージョンをふたつ作ったわけで、まあ、こっちのほうが良く出来たと思うけど、後で聴くと、あんまりデュナーミクじゃないや。しく。

続くw



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リパッティのようにまだまだこれからっていう年齢で亡くなるのはかわいそうだけど、
コルトーの晩年もかわいそう。

第2次大戦ナチ(てかヴィシー政権ていうか)に協力したっていうことで、戦後はかなり不遇だったわけですね。
しかも年齢的な衰えもあって相当厳しいものがあったわけです。
戦前は、最高のショパン弾きと賞賛されていたのに。(いや、ぼくはリアルタイムでは知らないけどさ)

リパッティの場合、本当に愛されながら亡くなったんだけど、コルトーは愛されなかったんだにぇ。
それでも80歳過ぎまで演奏活動をしたわけです。
この人も最後までピアニストとして生きた人ということがいえます。

もちろん、今は愛されてます。彼の名演は今だCDとして売られているわけです。

一方、今も生きてますが、突然転向してしまったのがアシュケナージ。
80年代前半には、やっぱこれからはアシュケナージの時代かってぐらい凄かったのだ。
次から次に録音を出して、(ショパンとベートーベンに至ってはピアノが入った曲をすべて録音している)
それらのほとんどが名演と評判をとっていたのに、いきなり指揮者に転向した。
今はN響の常任指揮者やってますが、ファンとしてはピアノ弾いてくれよ~~、って感じでつね。
まあ、すでにかなりの年齢なのでピアノは(技術的に)どうだかわかんないけど。(たまにほとんど演奏されないような曲は弾いているみたいだ)

ま、人生いろいろだよなあ。(つまんない締めですまそ)

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なんか、教育基本法が変わるそうで、なんだか自民党の人たちは愛国心というものを盛り込みたいと必死になっていたようです。
公明党との妥協案で落ち着いたようですが、愛するという言葉は入るらしい。

「愛」なんていう心の問題を法律に盛り込むのはアフォな話だけど、

さて、国ってなんでしょう。

愛国心を推進する人(爆)にきいてみたのですが、
「自分で考えるように」
だそうです。
で、ぼくが自分の考えを言っても、やっぱり言わないのだ。
ぼくは愛国心なんてどうでもいいし、国なんて枠組みの一種に過ぎないのだからどうでもいいわけですが、
あのなんというか、右っぽい人たち、って言うんですか、彼らは質問すると答えません。

いっつもなにやら主張しているようなんだけど、質問すると答えません。なぜ?

それはともかく、『国』。
郷土であったり国家であったりするわけですが、今度の法律では「郷土や国」とあるので郷土とは異なるもの、つまり国家の意味です。

国家っていうと主権と領土と国民なわけですが、彼らは何が好きなんだろうか。

国民が好きなようには思えない。何かというとすぐに同じ日本人に対しても反日と叫ぶやつらが人間を好きとは思い難い。
反日と叫ばない人もいる?でも本当に人間が好きなの?
日本人が好きなの?よくわからないなあ。

土地が好きなのかなあ。そんならロシア人とかカナダ人なら良かったのにね。いっぱい領土がある。

主権が好きって言うのは、今一ピンと来ない。もしこれが好きだとすると、
結局、国家権力みたいなのが好きなのかな。
よくわからん。

う~~ん、いったい何を愛するんだろう。

まあ、国家なんてその時の誰かの都合に合わせて変遷していくものなわけですが、その儚さがいいのかな。

う~~ん、わからん。

んで彼ら、地球のことはどう思ってるんだろ。
普通、国より大事だよね。枠組みは当分変わらんよ、地球では。w
(地球は単なる枠組みでもないし)

たぶん、近いうちに続き書きます。(ほんとか?)

あ、正確には「郷土と国」じゃなくて「わが国と郷土」だた。

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HPのMIDIのショパンのワルツ(9番)「別れ」(作品69-1)のところで、リパッティというピアニストの話を書いたんだけど、ちょと補足するでつ。

まあ、知ってる人には、今更な話なんだけれども。

リパッティという人は、1950年に白血病(本当は悪性リンパ腫だったらしいけど)、その死の2ヵ月半前に行なったのが、あのリサイタルなわけです。
もう、その時点で助からないということは、本人も観客も分かっていたわけですが、

「死を目前にして、ピアニストは何をするか」っていう質問にそのリサイタルで答えたような感じです。
ピアニストに限らないけど、そのような形で全うする人は、やっぱ凄いわな。

もちろん、リパッティは「神によって、ほんの束の間、貸し与えられた楽器」なわけで、誰でもがそんな特別ではないし、亜晩年に変節したからって、駄目ってわけでもないけど。
(まあ、変節の理由や仕方にもよるか)

そのリサイタルでは、バッハからモーツァルト、シューベルトと来て、最後がショパンの14のワルツの予定だったわけです。
なんつってもリパッティってばショパンのワルツやさかい、これをはずすわけにはいきまへん。

かれはその14曲を独自の配列で演奏するわけです。スタジオ録音の時もそうしたし、このリサイタルでも、また違う配列で弾いたわけですが、13曲弾いて、あと第2番だけとなったときに。沈黙が続いたのだそうです。
もうその曲を弾く力が残ってなかったのですね。
そりゃそうだよ、ピアノを何十分も続けて弾くのは重労働だもの。
ガンで死期が迫っている人にとってはまさに最後の力を振り絞ってやっているわけで、もう無理です、といったって観客はおこらないでせう。(泣く人はいるだろうけど。かなり)

んで、その沈黙の後に、ワルツの2番は弾かなかったけど、なんとかバッハの「主よ、人の望みと喜びを」をひいたそうです。
んでも、これはCDには入ってないのだ。

だから2番の抜けた14のワルツだ最後なんだよな。

仮に、本当にリパッティが「神によって、ほんの束の間、貸し与えられた楽器」だったとして、神はいったい何を言いたかったざんしょ。

はい、これは来週までの宿題です。(←関係ない)

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ちかごろ「格差社会」ってなことが問題となってきて、ネットの掲示板なんかでもかなり激しく(笑)議論しているようです。

もちろん、このような議論は悪くないです。がんがんやってください。
ただ、あまりにいろんな人が入り乱れてくると、最早議論にならないだろうなあ、と思ってしまう。

「我慢しろ」とか「働かざるもの喰うべからず」とか頓珍漢な意見が次々と出てくるし、「社会主義や共産主義国家を見れば今の(日本の政治)体制がいいことははっきりしている。変える必要なし」なんて、言っちゃ悪いけどバカとしか思えない発言をする人も結構いるのだ。

いったい何を議論しているのか、あるいは、すべきなのかというのがまったく分かっていないようです。

「格差は良くないから共産主義にしろ」なんて言ってる人はいないのでつ。勝手に自分の意見と反対の仮想の意見を作って批判して悦にひたっているって感じでしょうか。
昔からこういう人はいるけど、でもまあ、最近、増えた気がする。

こういう問題は、例えば、

諸事情によりサッカーをやる場所を十分に取れないので、本来の面積の約半分の敷地でやらなければならない。
さてどうするか、みたいな問題で、

せまいところで、1チーム11人というのは、窮屈だし見てて楽しくない。なんたって点が入りにくいだろ、だから人数を減らしてはどうかという話なのだ。
だいたい1チーム何人がいいか、という話をしているわけでつね。

つまりさじ加減なのら。だれも「1チーム1人がいい」とか「人数を増やそう」なんて意見は真面目にはださないだろう。
5人がいいとか7人がいいとか、そういう話だお。
あるいは人数を減らさずにオフサイドを取らないことにすれば点は入るとかいう意見も出るかもしれない。(でもそれだと、ボールとったら相手のゴール前にぼーーーんとあげればいいから、中盤が無駄になって大味な試合になる、とかいわれて却下されるなw)
あるいは、ファールは一切とらない「喧嘩上等」ルールにするとか。(ルールじゃないw)

話を戻します。
富の再分配はいままでもやっているわけだ。税金は結局はそういう働きがあるわけで、たくさん稼いだ人はすこし多めに払うようになっている。
それをもうちょっと増やすかどうか、増やすならどのくらい増やすか、あるいは、どうやって集めるか、とか、集めた税金の使い方はどうするのか、っていう問題なのだ。

ぼくなんかは、島国日本という狭い枠内での話なんだから、それ相応のラインにしたらいいと思うけどね。



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HPのほうに昨日出現した「無心の歌、有心の歌」のおまけ「天国と地獄の結婚」の冒頭で、「DOORS」の名前がオルダス・ハックスレーの「知覚の扉(the doors of perception)」からとられていて、この「知覚の扉」も、またブレイクの「天国と地獄の結婚」の中の、

If the doors of perception were cleansed every thing would appear to man as it is , infinite
(もし知覚の扉が浄められるなら、あらゆるものはその本来の姿、『無限』を人にあらわすだろう)

という部分からとられたものだということを書いたわけですが、

ホルへ・ルイス・ボルヘスという人(なんかルイボスティーが二杯ぐらい飲めそうだよね)、ってまあ、かなり有名な人ですが、この人の自撰短編集「ボルヘスとわたし」に「不死の人びと」という話があって、
これの冒頭に「ほら、もはやわれわれの目に晦(くら)まされることはないのだ」というルパート・ブルック(イギリスの詩人)の言葉がある。
作中には、ドン・ギリェルモ・ブレイクというイギリス人が出てくる。(変な名前だ、と思ったらギリェルモというのはボルヘスの父親の名前らしい)
筆者本人のあとがきでは、この短編について、
「ウイリアム・ブレイクは、もしわれわれの感覚が機能しなければ、--我々が唖(おし)で聾(つんぼ)で盲(めくら)・・・であるならば、--われわれはあらゆる事物をあるがままに、すなわち無限の状態において見るだろうと書いた。」(言葉遣いは、訳文を、そのまま書いております)

って書いてあって、この「奇妙な発想」とルパート・ブルックの一節(「ほら、・・」)から(この短編は)生まれたと書いているのだ。

どうも、ここら辺の感覚は興味をそそるらしい。

「知覚の扉が浄められる」なんていう言い方は、日本人的には、無とか無我の境地とかって感じで、さほど面白い(興味深い)ことでもないように思うけれども。

ボルヘスの言い方なんて、ずいぶんな表現で身も蓋もないじょ。なかなか面白いから、使わせてもらいましたって感じではないだろうか。
(本当にそういう感覚があるかも、などと考えて書いたようには思えない)

ついでに、

ボルヘスの使う「中国の百科事典」では動物は次のように分類される、すなわち、

a、皇帝に属するもの
b、香の匂いを放つもの
c、飼いならされたもの
d、乳呑み豚
e、人魚
f、お話に出てくるもの
g、放し飼いの犬
h、この分類自体に含まれているもの
i、気違いのように騒ぐもの
j、数えきれぬもの
k、駱駝の毛の極細の毛筆で描かれたもの
l、その他
m、いましがた壷をこわしたもの
n、遠くから蝿のように見えるもの

だそうだ。ってフーコーが言ってますぅた。




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どうも、年末に体調を崩して、今年になってからはMIDI作りに気合いが入って、すっかり興味が移ってしまった上に、「お金について」なんてネタで書いてたら、ホリエモンが捕まって、テレビでも「こめんていたー」が、がなりたてているので、今更、テレビと同じこといっても仕方ないので、さぼりまくってました。

そういうわけで、ときどき書きます。ぶっひぃ。

とりあえず、昨日、MIDI以外で久しぶりにHPを更新したのでよろしくぽ。^^

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