博多住吉通信(旧六本松通信)

 ブログ主が2022年12月から居住を始めた福岡市博多区住吉の生活や都市環境をお伝えします。

ハンガリー革命

2024年07月10日 | 歴史
(昨日の続きです)
 しかしミニスターリン・ラーコシの天下は続きませんでした。1953年3月5日にソ連の独裁者スターリンがこの世を去りました。マレンコフやフルシチョフら残されたソ連の指導者達は脱スターリン化を密かに推し進めていきました。その波はソ連の東欧衛星諸国へも及んでいきます。ハンガリー国民の怨嗟の的だったラーコシは穏健派のナジ・イムレに交代させられます。ナジも忠実な共産党幹部の一人ではありましたが、比較的民主化・自由化に前向きでした。このためナジはハンガリー国民の人気を得ることになります。その背景にはハンガリーは共産政権の下で労働者と農民の国になったはずなのに、ちっとも国民の暮らしが良くならないことと、ラーコシによる政治的な抑圧に国民の怒りが頂点に達しつつあったという事情がありました。しかし1955年にはラーコシ派の巻き返しによりナジは政権の座を追われてしまい、スターリン主義者のゲレー・エルネーが指導者の座に就くと、ついにハンガリー国民の怒りが爆発します。1956年10月23日、ゲレーの退陣を求めた労働者・学生たちのデモが首都ブダペストで発生。彼らは弾圧しようとするÁVOと衝突し首都は騒乱状態となりました。一部では首都に駐屯するソ連軍との衝突も起こっていました。この事態に驚いた共産政権はナジを復職させましたが、もはや国民の怒りは収まりませんでした。ハンガリー国民は「労働者評議会」を結成し1917年のロシア革命時のような「二重権力」状態を創り上げました。こうしてハンガリーの事態は後に「革命」と呼ばれる状態に到達しました。上の写真は介入してきたソ連戦車を占拠したハンガリー国民(注)です。
 怒り狂ったハンガリー国民によってデモ隊に機関銃を発砲したÁVO隊員らは体を二つに折られて殺害され街路樹や街灯に逆さ吊りにされました。労働者評議会は、ソ連と共産政権に付け込まれないよう、そのような報復を行わないよう制止しましたが完全に止めることはできなかったようです。
 膨大なハンガリー革命の詳細をここに記述することはできませんが、11月4日にソ連軍の介入によって最終的に残酷にハンガリー革命は圧殺されてしまったのでした。(この記事は続きます)
(注)DailyNewsHungaryから引用させていただきました。
https://dailynewshungary.com/ja/1956-october-23-start-of-the-hungarian-revolution/

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