
昨日の続きで、私が2014年3月11日に本ブログに掲載した記事を再掲載いたします。上の写真は昨日と同じくモスクワのホテルで注文した「ウクライナ風水餃子」です。
中央ラーダの旗の下に
2014年03月11日 | 歴史
帝政ロシアはマルクスとエンゲルスからは「諸民族の牢獄」と呼ばれていました(「牢獄」と呼ばれた国は他にもありましたが)。旧ソ連の圧政と比べれば、帝政ロシアの支配は緩やかだったという指摘もありますが、ユダヤ人へのポグロム(無防備なユダヤ系市民に集団で暴行を加え死に至らしめること)などを見る限り、とてもそうは言えないのではないかと思います。しかし1917年に2月革命が勃発して帝政が倒れると、ウクライナにも自立のチャンスがやってきます。ウクライナの人々は、割と穏健な左派やウクライナ民族主義者シモン・ペトリューラなどを指導者とする「中央ラーダ」を組織してウクライナの独立を宣言します。近代史上初めてウクライナ人の独立国家の芽が出たのでした。ラーダとは評議会という意味で、ウクライナ人の国民議会に相当するものですが総書記局と呼ばれる行政組織も同時に保有する行動的な機関でした。さらにコサック軍団などを基盤とするかなり強力な軍隊も保有していました。
同年の十月革命後にロシアの政権を掌握したボリシェビキ(後のソ連共産党)はウクライナの完全独立を阻止するため赤軍を送り込みます。ウクライナは豊かな穀倉地帯であり、石炭や鉄鉱石など地下資源も豊富な地域で、全ロシアの発展を図るうえで不可欠な地域でした。進撃した赤軍はいったんウクライナを支配します。中央ラーダの人々は第一次世界大戦でロシアに進駐していたドイツ軍とオーストリア・ハンガリー軍に救援を求めます。ドイツ軍の攻撃でいったん赤軍はウクライナから撤退します。しかし赤軍が撤退すると侵略者の正体を現したドイツ軍は大量の穀物をウクライナ農民から強奪しはじめます。ついでに中央ラーダの権力を奪ってロシア貴族を首脳とする保守的な政府を組織させてしまいます。
1918年11月にドイツが連合国に降伏しウクライナから撤退すると、再び中央ラーダは復権を図ります。しかしここからは、もうしっちゃかめっちゃかです。デニキン将軍率いる白軍や、アナ―キストのネストル・マフノ率いる黒軍、そしてこの頃妙に侵略的になっていたピウスーツキ率いる独立ポーランド軍がウクライナの覇権を争って目も当てられない事態になります。おまけに伝染病チフスが蔓延して中央ラーダ軍は壊滅状態になります。そしてボリシェビキの後ろ盾のもとで成立したウクライナ社会主義ソヴィエト共和国が白ロシア(ベラルーシ)、ロシアと共に1922年にソ連邦を結成することになります。ペトリューラはフランスに亡命しましたが、1926年にパリでソ連共産党の暗殺者によって殺害されてしまいます。(明日に続きます)