すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

冬至まではまだ暗い朝が続く

2021年11月22日 | 読書
 相変わらず、目覚めが早いパターンが続いている。手元のライトをつけて少しずつ、また眠気が戻ってくるまで読んでいる…初冬が近い。


『つまらない住宅地のすべての家』(津村記久子 双葉社)

 この作家の本はつい手に取ってしまうが、途中で混乱してくる場合が多い。
 今回も冒頭に「住宅地地図」と、それぞれの家の家族構成などが書かれてあり、こりゃあ難敵だと思った。
 案の定、何度か冒頭の地図を見直す羽目になり、結局クライマックス直前に、読みが流れてしまった(ストーリーがつかめた程度という感覚)。後味の悪い読書だ。
 この類はベッドで少しずつではなく、ある程度まとまった時間の時に手にするべきと反省。
 さて、この本に登場する路地にある家々のエピソードは、似たようなことが全国各地でもあるのだろう。
 「絵に描いたような幸せな家族」という表現はそれ自体に価値観の固定化がみえる。もはやフローの中にしか光は見えないと自覚するしかないと、ずっと思い続けてきたことを咀嚼している。




『私の方丈記』(三木 卓 河出書房新書)

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。」鴨長明もフローの中を生きていたか…と結びつけるまでもなく、それが人の生き方なのか。
 「現代語訳」と「私の方丈記」というエッセイ、そして方丈記原文で構成された一冊だ。筆者は1935年生まれ。満二歳で中国に渡り、敗戦で帰国。そして…という人生を送っている。その中で自らの来し方を、方丈記と照らし合わせながら振り返っている。
 この作家は、『お手紙』の翻訳家として最初知った。あの2年生教材も読めば読むほどに内省させられる作品だったし、このエッセイもしかりだろう。
 「こどものころ、そして若者であるころ、自分が風景に融けこんでいるから、風景を対象として見ることはない」という一節は大切なことを教えてくれる。風景が見えるということは、「自分が風景から剝がれおちた」からなのだ。


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