すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

暗黒時代を紐解けば・壱

2018年06月10日 | 雑記帳
 今月下旬に高校の同期会が催される。10年前にも開かれているが中学の同期会と重なり、出席しなかった。そうでなくとも自ら「人生の暗黒時代」と名付けている時期なので参加するつもりもなかった。ところが今回ひょんなことから連絡役を頼まれ、それがいつの間にか実行委員となり、当日の司会まで出世(笑)した。


 どうも司会には縁がある。と、まあこの点はいずれ書くとして、360人もいる同期で出席者は100名弱という。同業だった者は親しいがそれ以外となるとおそらく45年!もあっていない者も多いだろう。少しイメージづくりが必要と昔のモノを漁ったが皆無である。知り合いから「生徒会誌」を借りて読むことにした。


 『愛宕(あたご)』第25号から27号。年度にすると昭和46~48年となる。その頃校舎改築があり、旧校舎、現校舎ともに体験しているのが私たちの世代である。100ページ足らずなので全員が記しているわけではないが、部活名簿など懐かしい名前が目に飛び込んでくる。古びたB5版冊子から何か木造の匂いがする。


 どの高校でも同じように、編集はおそらく2年生が中心に進められたはずだ。自分は関わっていなかったが、その意味では26号がたぶん一番高校生活に当てはまるはずだ。そしてエライことに拙文が二つ載っていた。一つはクラス紹介文、まったくのおふざけ文体だ。さらに「現代湯高生気質」の章に何故か名前が…。


 それは「性意識」がテーマであり、題はついていないが、日本人の陰湿なSEX観や恥の意識がどうのこうのと、愚にもつかない文章を書いている。文体はこちらもおチャラけ、まさに読むに堪えない代物だ。やはり「暗黒時代」だ。読む気も失せつつ27号を開くとクラス紹介に凄い文体があった。書いているのはK。~続く

一本取られた感じの良著

2018年06月09日 | 読書
 東京銀座に昭和30年発刊のタウン誌があるそうだ。その名は『銀座百点』。縁遠い世界だなあと思う。ホームページからも想像がつく。会員店で無料配布されていながら、お金を払って年間定期購読もできるという入手方法一つとっても、なんとなく購読層が想像できる。そこへ連載されていた文章がまとめられた。


2018読了59
 『うかんむりのこども』(吉田篤弘  新潮社)


 内容が「うかんむりのこども」つまり「」なので、自分の興味関心にどんぴしゃり!銀座とつくほどの高級感は鼻につかず、著者の探求心とウィットに富んだ文章を、なるほどなるほどと思って読んだ。特に唸ってしまったのは「」という章。ご承知のようにカラス。字としてみると「鳥」から横棒が一本足りない。


 著者はその一本足りない点を肯定し、それこそあるべき姿、世の中のトリの方が「一本多い」と言い切る。そのうえ「事の本質、本来の姿は、じつのところ、横棒を一本取り除いたところにある」との論を展開する。そして他の文字に対しても一本を取り除いた例を提示する。「」と「」、「」と「」、「」と「」…。


 これが見事だ。が紙から出来ていることを思えば、確かに本質はだ。に一本足して大きく見せようと、にする。はてにはもう一本つけてとする。横棒などのいらないものを取れば、すっきりになる。「人間」と言った時、横棒のたくさんある「」に着目して、その一本を取り除き「」にし、本質に迫った。


 字にまつわる創造的な話が続く。そして最終章「うかんむり」には見事な仕掛けが…。「漢字の達人」に逢った著者はこんな指摘をされる。「字という漢字は、うかんむりではありません」。そうだと記憶が呼びおこされた。「字」は「子へん」だった。見た目だけでは判断できない「字」とはかくも多様だと深く感じ入った。

「感動より思考を」見取る

2018年06月08日 | 雑記帳
 2012年に『ゴーイングマイホーム』というTVドラマが放映される前に、へぇー是枝監督が作るんだと思った記憶があり、ドラマも欠かさず観たので、結構以前からシンパシーを抱いていたのだと思う。『誰も知らない』の印象が強かったのかもしれない。もはや巨匠と呼ぶにふさわしい勲章を得たが、結構強烈な人だ。


 久しぶりに「文藝別冊」を買った。昨年秋に出たもので『三度目の殺人』が公開された頃だ。ざあっと目を通したが、読み手としての知識がちょっと足りない。いや、それどころか最新作だけでなく、その前作も見ていないのだから…。こりゃきちんと見なければ。テレビの放映を待ってるようじゃ駄目だなと痛感する。


 「文藝別冊」に単行本未収録エッセイもあり興味深かった。メディアのあり方について「感動より思考を」と題して、「伝える側」としての当事者意識の欠如を批判する。「メディア従事者に今求められているのは、わかりやすい正義感ではなく、彼らの態度の中に自らを見ようとする姿勢なのだ」と本質をずばり突く。


 上の文章は99年当時のものだが、結局20年経ってもメディアの姿勢は益々堕落していく一方である。是枝監督が作品を通じて対峙してきた、世の中のリアルにある同時性、共通性はやはり訴求力が強い。二年前に武田砂鉄が聞き手となったインタビューでは、現状における「家族観」の中核的な考えが示されていた。


 現政権が「伝統的家族観」を打ち出していることに明確な異議を唱え、「余計なお世話だよ」と突っぱねる。ナショナリズムに頼り多様な場を提示できないことを「政治の貧困」と言い切る。そういう目のみで作品を捉えるのは危険でもあるが、「感動より思考を」は貫かれているはずで、敏感に見取ってこそ価値がある。

ぶらりと北斎の富士へ

2018年06月07日 | 雑記帳
 去年観たNHKの『北斎の娘』は宮崎あおいの好演だった…そんな程度の関心で、終了が間近になってきた「北斎の富士」展示を近代美術館まで観に出かけた。しかし、やはり絵心無き無粋者には正直太刀打ちできなかった。ただ初め「案外小さいんだな」というレベルだったのが「ふむふむ」までは届いた気がする。


 これで江戸時代の営みを知ったなんて言うのはもっての他だが、人物が描かれた作品にはどこか声が聞こえてきそうな気配がする。それは独特の緻密な線が醸し出すのか。ほんの短い時間でも浸っていれば、想像の芽は膨らむ。これらの絵は、富士があるというより富士がいつも見ているように思えてきたのだった。


 誰でも見たことのある「凱風快晴」という有名な絵(赤富士の由来ではないかという説も)があった。こうしたすっきりさは、日本の原風景の一つだと思う。数年前「無電柱化プロジェクト」の下絵としても利用されたようだが、「むしろカッコいい」という感覚は自分なら持てない。あの騒ぎを北斎ならどう感じたか。


 さて、上の階にある常設展示「所蔵・名作セレクション」も少し覗く。小学生の校外学習の一団を横目でみると、最近は施設の教育体制もしっかりしてきたなと感ずる。「やさしい鑑賞シート」という通常の解説が書いてあるプリントとは別に、カード形式の手引きがあり感心した。帰りの通路で記念写真(笑)をパチリ。


(溺れてこの先どうなるという臨場感は…ないか)

こころに種子を播く日

2018年06月06日 | 雑記帳
 「お稽古の日」ということで何か書き散らそうと思ったが、稽古については前も書いたことがあるはずと…「稽古とは、深い言葉だ」。で、今何か自分が稽古しているかと言えば、誰かに習っていることが皆無と気づく。自学自習での「ことば」を究めるしかないか。それも一つの稽古と、今日の暦「芒種」に目をつけた。


 「芒種」は、wikiにこうある。辞書でもほぼ同じ。苗づくりや田植えの時期は少し過ぎたので暮らしとの密着度が薄れた。さて「ことば」に目を移すと「」が気になる。「芒」は「のぎ 、イネ科植物の果実を包む穎(えい)すなわち稲でいう籾殻にあるとげのような突起」である。しかし「艸」+「亡」という訳は?


 「亡」とは「なくす・ほろぼす」という意味だが、そもそも「見えない」も含まれ、小さい突起が「見えにくい」ことから「芒」が作られた。ごく小さいことも表し、「のぎ」と読む漢字を調べていたら、なんと「」が出てきた。「きわめて、びさいなもの」。納得する。ところで「亡」という漢字のでき方が面白い。


 大漢和辞典では「人をL印(囲い)で隠すさまを示す」という会意文字とあり、常用字解では象形文字として「手足を折り曲げている死者の骨の形」とある。いずれにしても「あったものが姿を隠す」「ほろびる」ということにつながる。この部分を持つ字は他に「忘」「忙」「虻」「恾」があるが、やはり縁起悪しである。


 しかし「芒種」そのものは種を播くことであり、収穫への「期待」があることは確かだ。歳時記に挙がっていた句の一つに目が留まる。「芒種とふこころに播かん種子もがな(能村登四郎)」。「とふ」は「という」であり、「もがな」は願望を表す助詞である。お稽古の日は、「こころ」に種子を播く日としてふさわしい。

酒場で同世代応援(したい)

2018年06月05日 | 読書
 「酒場」にはずいぶんご無沙汰している。テレビでそうした番組を観て我慢するしかないか。それにしてもその手の番組は増えた。太田和彦、吉田類に始まったその流れも今が全盛期か。ところで酒場で飲む酒が美味しいのは、なんといっても一仕事終えた後。それに好きな道楽の話も楽しい。藝の話はできないので…。


2018読了58
 『酒場の藝人たち』(矢野誠一  文春文庫)



 著者は演劇・演芸評論家。数々の藝人や文化人たちと交友が深く、その関わりをもとに綴られたエッセイがまとめられている。と言っても時代はほとんど昭和期といってもよい。大御所の落語家たち、マルセ太郎、イッセー尾形、太地喜和子といった個性派…そこに興味を抱く、自分の偏屈さを思わずにいられない。


 「彼(マルセ)の藝は、ごく一部のひとたちの支持だけ受けているほうが、より一層の輝きを持つ」「イッセー尾形の藝の持つ『笑い』は、たがいの傷口をなめあうような性質の笑いである」…こう続く文章は、ある意味自慢げにも見える。しかし、それはきっと「同世代を生きる藝人と連帯していた」証拠でもあろう。


 「團十郎爺」という言葉を初めて知った。それは「口を開けば『團十郎はよかった。それに較べると、いまどきの…』という台詞を吐き出す」人らしい。似たような台詞を聞いたことはあるが、自ら言った記憶はない。これは藝という視点では「生の姿」に頻繁に接することが出来る人に限られる気がするから無理か。


 少し幅を広げて音楽やスポーツ等、「同世代を生きる幸せ」を感じられるプレーヤーがいれば、それは幸せなことだ。音楽界では頂点を極め、今も君臨している存在が何人もいるが、さすがにスポーツは無理がある。監督世代もずいぶん若返っているから…。あ、いたいた、西野監督!批判、悪口に負けず頑張るんだ!

価値を乗せて走るバス

2018年06月04日 | 雑記帳
 録画しておいたNHK「ドキュメント72時間」に「島へ山へ走る図書館」の回があった。愛媛県松山市の移動図書館のことだった。なんと40年以上の歴史を持つ。集う人たちは確かに過疎地だけに少なかったが、借りる本を通して人生が透けて見える部分もあり、興味深かった。人が手にする本には暮らしが反映する。


 そんな時、ネットに「ブックバス(BOOK BUS by Value Books)」というネーミングの告知を見つけた。自分も利用したことのある中古書店がさばききれない本をネット上だけでなく、書店の少ない地域へ実際に出かけて販売しようというプロジェクトだ。採算がどうなのか不明だがいいセンスだなあと素直に感じた。



 実際に出かけて覗いてみると、もちろん冊数は限定されているが、なかなか面白い本揃えだった。絵本などの他に話題の本というよりややマニア的な視点で並べられているようだ。ちなみに私が購入したのは2冊。「放送禁止歌手 山平和彦の生涯(和久井光司)」「異性(角田光代・穂村弘)」。どちらも渋い?本だ。


 こんな2冊を買う者には、どんな人生が透けて見えるというのだろうか。後者は穂村弘所縁なのでさておき、前者はどこかにその対象を引きずっている自分がある。もう手元にない彼のアルバムは昔おびきゅう!で買った。一曲もヒットと呼べるものがないフォーク歌手。その生涯にどんな価値を見出せるか。楽しみだ。


 さて、世の中に一体何冊の本があるか知らないが、日に日に増え続けていることは確かだ。そしてどの本にも何かしらの価値がある。価値との出会いを仕組むこと、それが「書店」や「図書館」の役割だろう。移動図書館やブックバスは、たくさんの価値を乗せて走っていると思えば、その風景には詩情がある。

「裏切りの日」に裏話

2018年06月03日 | 雑記帳
 ぺらぺらと歳時記をめくっていたら、6月2日に「裏切りの日」とあるではないか。なんだこれはと検索すると、かの安土桃山時代の有名なあの日をもとに名づけられたと言う。はあんと思いつつ、あれは裏切りだったのかあ?とか、裏を切るとはどういうこと?と浮かんでくる。「」という字もちょっと面白いぞ!


 「」の意味は簡単そうに思うが、広辞苑では全13項目載っていた。大項目は次の三つ。「表面と反対の隠れている方」「規準と異なるもの」「1対のものの2番目の方」。一般に差別用語的にとらえられている節もあるか。「裏日本」という語も言わなくなったしね。でも「裏町」は何処にでもある。自分も今住んでいる。


 「便所・せっちん」の意味や「遊女を2回目に揚げること」といった隠語的に使われてもいる。いずれ表面に出せない、出さない点が強調されるのか。しかし、文字のでき方は「衣+里」であり、里には筋目のついた田畑を表わしていて、「裏」とはそもそも「しま模様の布地」。つまり布の裏地を示すことが由来だ。


 それは一面で「丈夫」または「複雑」ということも表しているだろう。裏を使った慣用句にもそのことが反映されている。「裏には裏がある」「裏の裏を行く」と、見抜けないモノを見ようとする人間の性を感じさせる。警察や新聞社が「裏を取る」という言い方をする。それはつまり、裏にこそ真実があるという認識だ。


 「」は「うら」とも読むことをご存知か。広辞苑には「(表に見えないものの意)こころ。おもい。」と載っている。その意から「うら悲しい」「うら寂しい」という言葉にもつながる。裏切るとは味方に背くこと、約束を破ること。つまりそれは「心を切る」ことだと、妙に納得できる。「裏話」も心の話だといいなあ。

あちこちのキニナルキ

2018年06月02日 | 読書
Volume104
 「リアルを拾うんだ。想像は負ける。」

 朝ドラ『半分、青い。』で、漫画家秋風羽織が主人公鈴愛へ言ったことば。
 恋愛漫画を描くために、何より経験の大切さを強調する。

 ありふれた考え方でもあるけれど、その精神を維持することはとても大切だ。
 想像の翼を拡げることも必要。しかしリアルの持つ重みはまた別次元だと教えてくれる。



Volume105
 「肌色のクレヨンと言わなくなりましたねえ。アメリカでは24色の肌色のクレヨンが売っているんですよ」

 絵本作家川端誠が、絵本ライブをしているときに言ったことば。
 言われてみればもっともなことだが、いつの間に消えたのか自覚がなかった。
 今は「うすだいだい」「ペールオレンジ」と言うそうである。

 そこに、人種差別の問題があることは確かだろう。
 その根はなかなか無くならない現実がまだある。
 思い込みに縛られないための貴重な一言だ。



Volume106
 「人間は、人が落ちぶれていくのを見たがる生き物である。嘲笑うことで自分を肯定したがる生き物である。」

 新刊本の書評の中にあった、武田砂鉄の言葉。

 この文章を読み、本の内容のことより、連日報道されている、いわゆる不祥事ネタのことが思い起こされた。
 何度も何度も繰り返し報道される、それらの対象人物に対して、私たちはこういった感覚を持っているのではないか。
 それゆえ報道もその事を煽っているという穿った見方もできる。

 もちろん、悪事・不祥事が安易に容認されてはいけないが、その人物に向ける自分自身の目に対しても冷静でありたい。

五月の長かった一日ら

2018年06月01日 | 雑記帳
 日記を見返したら5月1日に「床屋に行って『脱走』のことを」と記述がある。そう言えば前日に、松山刑務所から脱走した受刑者がようやく捕まったのだった。ずいぶん経ったような気がするのは、やはり実に様々なことがあったひと月だったからだ。お祭り、山菜、旅行、そして町関連…いくつかピックアップする。


 5日。この日は二か月ぶりにブログ更新が途切れた日。朝から地域祭典で大忙しだった。6時に地蔵尊へ集合、7時に神事。そして11時の総会まであれこれあって、総会終了が2時頃。片付けをして担当地区の反省が3時半から。輪番の班長であり会計担当でもあるので、最後までつき合い、帰宅したらダウンだった。


 13日。北上駅から新幹線で東京へ。お昼を駅構内のラーメンストリートで。外国人が実に多い。丸善へ寄ってから地下鉄を乗り継ぎ宿泊ホテルへ。少し休憩し、夜の「はとバスコース」へ向かう。銀座ライオンで夕食した後、ショーパブへ。TVで見かけるモノマネタレントもいる。そのノセ方の上手さに舌を巻く。


 不快な印象を与えぬよう(笑)モザイクをかけてみました

 25日。山菜シーズンの頂点。早朝5時過ぎに某峠で30本ほどいいタケノコを採る。いったん帰宅して景色撮影のために出かけたらアクシデント発生「やってまったあ」参照)。施設の方が運よくいらして、電話を借用してかけるが家族は不在の連続。結局、家との往復送ってもらう。感謝!その疲れで午後何も出来ず。


 30日。チャレンジデーの様子を映像データとして残すため、午前は子育て支援センターへ。我が孫も初参加。午後からは体育館でスポーツ吹き矢。こちらは元気な高齢者の方々。でも子供の方が絵になる(笑)。4時から某社の総会へ出席。その後「道の駅」で懇親会があり、久々に『端縫いの郷』を飲む。美味しい!