すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「用の美」はモノ語りではない

2017年12月11日 | 雑記帳
 ある冊子で、久しぶりに「用の美」という語を見かけ改めていいなあと感じた。柳宗理の民藝運動で語られた言葉であることの知識は持っている。数年前に出雲大社へ出かけたとき、関連する窯元なども訪れて安価な器も手に入れたこともある。雑誌では高価そうな「漆漆器」だったが、写真でもなかなかぐっとくる。


 (これは、某校PTAバザーで500円で手に入れた鏡。実際の価格は!!でした)

 ふと「用の美」と「機能美」とは同じなのかな、と考えた。確かに近い概念かもしれないが……。ネット社会、さすがに同じ問いを持つ人もいるもので「Yahoo知恵袋」で取り上げられていた。詳しい方々による説明、サイトの紹介もありなかなか勉強になった。下記の柳宗悦氏による含蓄のある文章も引用されている。

 ここに「用」とは単に物的用という義では決してない。
 用とは共に物心への用である。物心は二相ではなく不二である。

  ~柳宗悦『工藝の道』~


 これを読むと「用」という語の深さに思いがおよぶ。あまりに日常的な文字ゆえか、今まで意味など考えたこともなかった。漢字の由来は「字源」と「大漢和」において、象形と会意に分かれているが、いずれも木を使ってある「柵」「板」「棒」と関連が深い。語意は、通常「もちいる」「役に立つ」「しごと」となるが……。


 広辞苑等を読み込んでいくと、興味深い記述に出会える。「事物の本体に対してその作用、はたらき」。つまり「体⇔用」という関係性だ。「美」という概念は決して外見、外観だけに与えられるものではない。動きや働きについて美しさが語られるとすれば、やはりそれは道具等を使う人の心身も指すことを教えられる。

本当のゴールはその時間

2017年12月10日 | 読書
 北朝鮮とのサッカーの試合をイライラしながら観ていると、実況アナウンサーや解説が、盛んに「選手同士のコミュニケーションが……」と口にする。こういう言い回しはずいぶん一般的になったものだ。それは勝利を目指した真っ当な使い方なんだろうけど、もう一つ大事な見方があることも忘れてはいけないよ。



Volume89
 「人は、コミュニケーションを、成功というゴールに向かうための一手段、成果をゲットするためのツールだと考えがちだけれど、それは勘違い、スケベ根性というものであって、人生で大事なのはコミュニケートする時間そのものなんだ」


 雑誌『暮しの手帖』の澤田康彦編集長が、知人に「コミュニケーションは目的なんだよ」と言われ、その素敵さについて語っている。

 「コミュニケーション能力」というものが、経済やキャリアアップのためにしか使われないとしたら、ずいぶんと哀れな気がする。
 バリバリのやり手のビジネスマンが、外での商談や会社でのつきあいなどをうまくこなしているが、家庭ではストレスもあって無口だったり、乱暴だったり…なんていうイメージも湧いてくる。

 そうではなくて「幸せになるため」ということであれば、コミュニケーションそのものを楽しめる能力、姿勢の方がずっと大事だ。
 
 もちろん、多くの人と幅広く、明るく、活発にできることにこしたことはこない。
 しかしそれだけでなくて、数は少なくともじっくりと触れ合うコミュニケーションがあってもいい。

 今在る場で精一杯交わったり、自分のできることで人を喜ばせたりしたいものだ。

 澤田編集長は、その時の「大事なルール」をこんなふうに語っている。

 「その人と一緒に使う時間を、気長に丁寧に取り扱うこと。効率は考えない

でも、でも仕方ない味

2017年12月09日 | 雑記帳
 昨年は身内に不幸があり、年賀状を出せなかった。
 賀状づくりはちょっと楽しみという気持ちもあるので苦にならない。

 しかし一昨年まではやはり十分な時間もなく、「見切り発車」的な感じが多かったなあ。
 今年はある程度の時間もあるので、もう一軒分(笑)のデザインも引き受けて、昨日仕上げた。
 いよいよ今度は自宅の分に取り掛かる。

 「食べ物」ネタでやってみようということは、ほぼ決めている。
 それで「菓子ラボ」の写真も含めて、いろいろとデータを探ってみる。

 見ているだけで満腹になるくらい、写真が残っている。
 これもダイエットしなくては…と思いつつ、結局捨てきれない性分と言い訳している。

 さて、結局何をしたかはともかく、あっこんな写真がということで「たべびと」としてアップさせたいものを2枚。

 一つは「カステラ」。
 「菓子ラボ」でも「米粉を使ったグルテンフリー」を売り物に、「満月カステラ」をデビューさせたが、カステラと言えば「日本一」だと思っているのが、こちら。



 福砂屋「五三焼」。
 これは感動モノの逸品である。値段も高いが、一度は食したい。
 数年ぶりのご対面…文句なしの美味しさ。

 でも、でも…やはり初めての時の感動ほどではないなあ。仕方ないか。


 もう一つ「スパゲッティナポリタン」
 珍しく、食卓へ上がった。
 これは本当にしばらく食べていない。
 昔はスパゲッティと言えば、これオンリーだったと思う。



 ああ久しぶり…懐かしい、そして美味しいこと!

 でも、でも…学生の頃に食べていたナポリタンは、もっとモッタリダラリとしていて、あまり美味しくなかったけれどもっとウメカッタ!…それも仕方ないか。

自分の藪に張り付く人たち

2017年12月08日 | 読書
 あの有名人が同い年と聞くと、なんとなく気にしてしまう。亡くなった人を初め、姿を全く見せない人、若い頃からずっと変わらず活躍し続けてきた人、最近になって名の知られた人…様々だと感じる。ちなみに私の場合は桑田佳祐、明石家さんま、役所広司などトップランナーも多い。今週読んだ二人もそうである。



2017読了121
 『役者は下手なほうがいい』(竹中直人 NHK出版新書)


 竹中の「映画愛」「役者愛」にあふれている一冊。「脚本は読まず、役づくりもせず、型にはめられることを何よりも嫌ってきた」ことを貫いてきた半生が語られている。ただそれは自由奔放というイメージではなく、その場を大事にする、今風にマインドフルネスとでも呼びたくなる。それゆえ彼の芸には計算がない。


 演技やバラエティでの言動の訳が少し分かった気がする。書名は「出来ない事の豊かさもある」という信条だろう。表面上の成功、失敗も気にはするが、それを寄せ付けないバイタリティが常にある。「おまけ」として巻末にある小学校時代の作文は上手とは言えないが、停まらない好奇心が核にあることを示している。


2017読了122
 『鋼のメンタル』(百田尚樹  新潮新書)


 扉には「著者初の人生論」とあった。様々な発言をする人なのでなんとなく書いているような気がしたが、雑誌等の記事が多いのかもしれない。風貌は住職のようだが、その放言ぶりとそれゆえ受けるバッシングは有名だ。しかし著者はこう宣う。「『打たれ強さ』と『厚顔無恥』は似て非なるものだ」。これは大事だ。


 「恥」の感覚をしっかりと持つ……それが内向きか外向きかが大きなポイントだ。社会的な成功や他人からの評価を人生の優先順位としないことが、様々な観点から述べられている。「鋼」に込められているのは「鍛える」意味だろう。著者の挙げる「自分の藪に張り付く」という処世訓は、竹中にも見事に当てはまる。

おにぎりの味が心に届くには

2017年12月07日 | 読書
 今「おにぎり」と言われて、反射的に連想する言葉が「コンビニ」という人は多いと思う。それが時流だろうし、実際おいしく考えられた商品が並んでいるからね。しかし、本当に「心に届く、残る」おいしさとはまた別の次元だろうなと考えてしまう。


(UGO clear winter skies 2017.12.07)

Volume88
 「世の中でいちばん好きな食べ物はなんだと問われたら、私は必ずや、『おにぎり』と答えることにしよう。」

 雑誌『波』の連載で、阿川佐和子さんがそう書いている。
 幼い頃プールで泳いだ後に、母親が用意してくれた「おにぎりを頬張ったその瞬間に、心に期した」のだそうである。
 そのおにぎりは、当然ながら素手で握られ、俵型だったそうな。

 少し似た思いを自分も抱いていた。
 一時期「死ぬ前に食べたいものは何?」など訊くことが流行った?が、その時に浮かんできたのは「みそおにぎり」であった。

 幼い頃(いや中学生ぐらいまで、あったかもしれない)母親がいつも作ってくれた俵型の、味噌をまぶしただけのにぎり飯である。

 それは学校や出かける時に持っていくおにぎりではなく、腹を空かせて帰ってくる自分たちのために用意されたものだ。
 だから、もちろん炊き立てなどではなく、炊飯器かおひつに残った飯で粗末に握られただけのものである。こげついた部分も混ざっている、まさに「ニギリマンマ」と呼ぶにふさわしい見かけで……

 そう言えば、確か「ああ、ニギリマンマ喰いでゃなあ」と書いた記憶があったので調べたら、もう十年以上前のことであった。
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/5e747fb139e4e24bf68774837c2fc8b1

 その頃は、母も健在であった。
 そう思うと、なぜその時すぐに「握ってけれ~」と甘えることができなかったのだろうと少し悔やむ気持ちが出てくる。

 そんな様々な思いは、時に親しい誰かが握ってくれる姿を見てご飯の中に入り込んでいくのかもしれない。
 想像をかき立てられたおにぎりは、おいしさが舌だけでなく心に届くような気がする。。

最先端の風景が見える人

2017年12月06日 | 読書
 羽生善治「永世7冠」のニュースを見る。寝ぐせがついたような髪型そのままに、淡々と語る言葉に惹きこまれてしまった。



 思わず凄いとずんと響いてきたのは、今後の勝負と将棋の本質について訊かれたときの返答だった。

Volume87
 「将棋の世界は、基本的に伝統、長い歴史がある世界ですが、盤上で起こっているのはテクノロジーの世界。日進月歩でどんどん進んでいます。過去の実績で勝てたといっても、これから先に何か盤上の上で意味があるかと言われれば、あまり意味がなくて。常に最先端を探求していくという思いでいます。」


 トップランナーと称される者の重みが、ずしりと伝わってくる。
 「過去の実績」が「盤上の上で意味」はあまり持たない、という潔さは到底凡人が達する境地ではない。

 世界中を見渡せば、結構な数のアスリートやアーティスト、経営者など該当するかもしれないが、やはり「孤高」に近いイメージがある人に限られるのではないか。

 その「道」の最先端に立ったことのある者しか見えない風景であろう。


 が、しかし……これは現実にその位置に立ったことがある者でも、ひょっとしたら見過ごしてしまう、また気づかないでいる境地であるのかもしれない。

 きちんと見える者には、そう、きっと「品格」が備わっている。

 と、何か「騒動」論議につながりそう……。
 ただ、将棋の世界に生きる者たちが互いに刺激しあい、尊敬しあえるとすれば、それは「盤上」でしかないだろうことは、今回の発言でも気づかされる。
 そしてそれは勝負のある世界すべてに言えることだ。

芸能人の姿は写し鏡

2017年12月05日 | 読書
 芸能人はある意味で商品に間違いない。従って、どう宣伝されて、店頭でどんなディスプレイされるか、陳列の位置は…などと喩えてみることが出来る。もちろん個人の嗜好はあるにせよ、時代や世相(人が操作、加担する)に導かれるように姿を現わしたり消えたり、ずっと居座ったり……巨大スーパーと似ている。



2017読了120
 『芸能人寛容論~テレビの中のわだかまり』(武田砂鉄  青弓社)


 cakesというサイトの「ワダアキ考」を登録し愛読している。この本はその原稿が大半なので目を通しているものが多かった。ただ、改めて読み通していると、これは「芸能人」を対象として書いてはいるが、そのタレント等自体ではなく、それを取り巻く社会や視聴者である私たちについて論じているのだなあと思えてくる。


 この著の第一項は「やっぱりEXILEと向き合えないアナタへ」。そして最終項は「星野源が嫌われない理由を探しに」となっている。TVそのものに関心のない人や、見ていても「わだかまり」を感じない人には、わかりづらい話かもしれない。ただこの二つに象徴されるように、間違いなく世相とリンクはしている。


 ある年齢層以上になるが「ナンシー関」のコラムを想像していただければ近い感じがする。著者自身がネット上で批判を承知で「ナンシー関を尊敬してやまない」と、堂々とあとがきに記している。ナンシー関は90年代を駆け抜けた心身ともに巨大なコラムニスト、その批評精神を引き継いでいる人たちは少なくない。


 芸能人をみる視点が満載だ。ズバリ記されているのは例えば「流行りの芸能人のほとんどは、『情熱大陸』的な外からの物語化、ブログやTwitterなど(略)内からの物語化、この二つを慎重に調合していく」など。画面に映る姿や表現の意味だけでなく、自分の抱く感情の出どころまで指摘されているような本だった。

「機制」に気づき、つき合う

2017年12月04日 | 雑記帳
 知り合いのFBに「機制」という使い慣れない言葉があった。というより自分は使ったことはない。「規制」ではない。辞書では広辞苑クラスでないと載っていないようだ。広辞苑には「→機構②に同じ」とある。機構の②とは「機械的に構成されているしくみ。(中略)組織。メカニズム」。これだけではピンとこない。



 他の大判の辞書でも似ていたので、ネット検索をしてみると「デジタル大辞泉の解説」にも「仕組み。機構」とある。これもか……と思いつつ横に目を移すと例語として「心理機制」とあるではないか。そうそう、そのイメージだ。と追検索すると、結局行き着くのは「防衛機制」「適応機制」という心理学用語だった。


 機制とは、「(心理的)機構+規制」と解釈すればいいだろう。かのFBには「『無用の混乱』を避ける機制、『混乱を怖れる』機制」についての記述があった。行政であっても企業であってもまた教育の場にあっても、管理する者は特にそれを知らず知らずのうちに作りあげてしまっていることを自覚しなければならない。


 問題解決に動くとき、機制に気づくか気づかないで次の一手が左右される。独善に陥らないために自分の論理や感情だけでなく、対象者の内的なことに目を移していく。そんなふうに「規制」しながら判断のメカニズムを修整していければいい。機制とのつきあい方をあれこれ悩むことも、柔軟さと呼べる気がする。

流行語は映えたのか

2017年12月03日 | 雑記帳

 (秋田うご辛美だいこん、食しました)

 流行語大賞は予想されたように「インスタ映え」と「忖度」と決まった。「忖度」については、ある意味ではいい日本語が「汚された」印象で残る年となった。もう一つは先日見た刑事ドラマで、哀れなキャリアウーマン(古っ)の末路に絡んで描かれていて、いかにも世相を感じさせる。ところで「映え」が気にかかる。

 
 「○○映え」という語はそんなに思い浮かばない。「見映え」「出来映え」…「かわり映え(しない)」ぐらいか。手元の逆引き辞書で「〇〇バエ」を調べてみると全部で90ある。見ていくと多いのは「〇〇蠅」が圧倒的、その次は「生え」から出来ている「芽生え」などが多いようだ。「映え・栄え」は限られているようだ。


 覚えておきたい語としては「事映(ことばえ)」「着映(きばえ)」「作映(つくりばえ)」あたりだろうか。あとは「月映」「白映」「映映」は古典的な使い方だ。ところで「ばえ(栄・映)」の本来の意味はこうある…「動詞の連用形につけて、そうすることによって引き立つこと」。としても当然ながら「インスタ映え」とは……


 「Instagram」はアプリの名称であるし、「インスタ」がその略語なので単にくっ付けただけの話である。そもそもの名称も造語だろうし「Inst」という辞はinstantあたりと関係があるのか。ちなみにInstabilityという一番近い語は「不安定・移り気」を意味する。ネット上で「インスタ蠅」と揶揄される訳とは言わないが……

生きる現場力とでも

2017年12月02日 | 読書

 (UGO morning sun 2017.11.28③)

 「個食」「孤食」という語は、ほとんどの辞書に入っている。しかし今、それさえもままならない状況が出始めている。それは、時代の趨勢ということで済ませてよいものか。内田教授が10年ほど前に語ったことは、その意味でも予見されていた。

 「個食」というような特権的な食物摂取が可能であった社会はこれまで存在したことがない。そして、そのような特権がいつまで継続するのか私たちにはわからない。


2017読了119
 『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(内田 樹  文春文庫)


 この文庫本はまだ読んでいなかったなあと思い手にとった。盛んに著者のブログを訪問していた頃の編集版なので、目にしている文章が多いかもしれない。しかし、時を経て(10年前後かな)触れてみても、ほとんど古さを感じないし、自分にとっての羅針盤の一つでもあったことを改めて確認できた。まず題名がいい。


 あとがきによると、この本はベストセラーになった上野千鶴子著『おひとりさまの老後』に対する「アンサー・ソング」の意味を込めたらしい。その著は読んだことはないが、その頃の社会情勢に沿っているのは間違いない。時代は確実にその頃よりリスクが高くなっていて、今「おひとりさま」はどうなっているか。


 安全で豊かな社会という幻想はもはや崩れつつある。今、「自立」は大事だが、それは「孤立」になっていないか見定めることは非常に重要である。「共生社会」といくら喧伝されても、実際に自分が社会のなかでどんな役割を持ち、どんな姿勢でコミットしているか語られる者でなければ、まさに絵に描いた餅なのである。


 この本は、いわばその「自立」の具体的な処方箋の在り処を教えてくれる気がする。そこを照らすライトの役割を果たすのが書名「ひとりでは生きられない」という逆説的な真実である。自分が発すると同時に、他者からその言葉が自分に向けられるような身の処し方こそ、生きる現場力とでも称したい「大人」の姿だ。