すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

エネルギーの伝え方

2016年08月16日 | 雑記帳
 昨日は午後から成人式に参列した。町内では160名ほどが対象者という。出席率はいつものように結構高いし、臨む態度もかなりいいと感じる。単純には言えないけれど、それは地域社会及び学校教育の成果だと思う。さて、昨年までは式典のみ列席したが、今年は立場が異なるので、記念講演まで拝聴することとした。



 「南米より愛を込めて~安寧から荒野へ」と題して、NPO法人の代表者である講師が50分ほど話された。久しぶりにこうした真面目な話を聞く機会だが、どうしても昔の癖が抜けず、聞き方が分析的になってしまい、思わず苦笑した。しかし、それもまた自分の性かと思い、ここは甘辛批評的にいくつかメモする。


 一流の高校、大学を卒業し、外資系企業に入った講師がドロップアウト?し、南米への旅に出かけ、今の生きがいと出合うという内容は、確かに若者にはふさわしいと思った。一言で主張を表すとすれば「誰かに強制された生き方をしない」となる。それは共感できる。しかし聴衆はそのための策を欲しているだろう。


 講師が伝えたい一番はきっと「ラテン的気質」だ。ただ、これは難しい。特に本県はそうだ。だからこそと思いつつ、次の「武器」の有効性を明確にしてほしかった。受験や企業人としての三年間、またスペイン語習得に関してエピソードは語られたが、実はその部分に足を踏み出すポイントがあったのではないか。


 ということで、話を整理すればかなり新成人に伝わったのではないかと思う。また会場の音響などにも気を遣う必要がある。具体的にはマイクの使い方が下手である。発音にも気を配ってほしい。…書いていて我ながら細かい奴だ…エネルギーは感じたが、エネルギーの伝え方にはやはり工夫が必要だと思ってしまう。

スタイルを手にするために

2016年08月15日 | 読書
Volume14

 「店に必要なのは、いい音楽やいい映画ではなく、スタイルのある音楽や映画なんです。」 

 カルチャア・コンビニエンス・クラブ、というよりTSUTAYAの社長と言ったほうがわかりやすい。増田宗昭氏がインタビューに答えた言葉。

 古くから「ライフスタイル」という言い方は一般的だった気がする。
 歴史的?に印象が強いのは「シンブルライフ」かな。
 これはもう40年近くも前に、某アパレルメーカーのCMが同名の曲を使って流行らせたとされている。
 ピーター・フォンダとか高倉健が出ていた。
 当時は、ブランドを売るための大雑把な提案といった位置づけだったろう。



 世紀をまたいで今語られる「スタイル」は、それらがもっと細分化されて選択の幅が拡がっている。
 それが需要を生み出していると言ってもいい。
 結局、何者にもなれない大衆は、何者かになりたくて、自分のスタイルを持っている(ように見える)何者に染まってみたいために、商品に手を出していく。

 その行為によってスタイルに共感できるとすれば、それは幸せと言えるだろう。
 
 しかしまた、そういう心持になるかならないか、きちんと見定めることもまず大事だ。
 そして、そのスタイルと周囲との折合いを客観視できることが肝心だ。

初盆に思っていることがら

2016年08月13日 | 雑記帳
 昨夜は珍しく星空を仰いだ。ペルセウス座流星群が見られるかなあと淡く期待したが、根性も知識もない者には無理なのだろう。ただ20分ほどのうち、流れ星とおぼしき光は三度ほどあった。星に願いを…、は何歳になっても楽しい。「あっ」と思った瞬間に消えるのが常ならば、願いは常に一秒で出せるようにしたい。


 オリンピックの柔道の試合をつまらないなあと思ったのは、北京だったか、その前だったか。技をかけようとすることが、見ている方には、結局道着の引っ張りあいにしか映らない。格闘技とはそんなものだろうか。今回の100キロ超級決勝の話題がずいぶんと拡がっているが、無理もない。強い弱いは見えてほしい。




 朝の連ドラ「とと姉ちゃん」の本日放送分は、主人公の妹鞠子の結婚式のシーン。来賓として花山編集長が挨拶をする。その内容の一部として使われたのが、モデルとなった花森安治の次の言葉である。

 「おそらく、一つの内閣を変えるよりも、一つの家のみそ汁の作り方を変える  ことのほうが、ずっとむつかしいにちがいない。」

 この場面では「家庭の味」を強調するために使われている。挨拶としてはいいモチーフだと思う。しかし現代では通用しなくなっていることも確かだ。いやだからこそ、そんなふうに言える家庭をつくることの重要性が浮かび上がってくる。「みそ汁」に限らず、その家の味を持つことは家族が機能していることだろう。

想像力は能力ではない

2016年08月12日 | 読書
Volume13

 「人の限界を決めるのは能力じゃなくて、想像力。どんなに頭が良くても、想像できない人には可能性がない。」 


 印刷業界に新風を巻き起こしているというラクスルという会社の30代社長、松本恭攝氏が語った言葉。
 ここから一つ推論できることがある。

 「想像力」は「能力」ではない。

 能力の一部ととらえることがごく一般的だろう。
 なぜなら、想像するためには言語や論理などを基にする必要があるだろうから。

 しかしここで言う想像力の根幹は、想像する意欲や習慣、自分の見方に対する信頼のようなものではないか。
 そこを指しているのだと思う。



 寺田寅彦の随筆にこのような表現がある。

 「いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。」

 頭がいいと人より先に目的地に着くかもしれないが、速いがために周囲に目が向かず大事なことを見落とす可能性も高いことがある。
 ある面でこれは想像する時間が少なかったと言えはしまいか。


 可能性を担保するのは、いかに現実から想像を巡らし、その時間とつくりあげる未来を楽しめるかだ。

非情な非常勤であっても

2016年08月10日 | 読書
 『おれは非情勤』(東野圭吾 集英社文庫)

 久しぶりに読む東野圭吾作品。学校という舞台設定に少し惹かれた。ごろり寝転んで読むにはいいと思ったが、なんとこれはあの学研『5年の学習』が初出、いわゆるジュブナイルだった。展開の妙はさすがでも、なんとなく駄作に思えるのは、やはり学校に勤めた者としてディテールを物足りなく感じるからだろう。



 「非常勤」と「非情」を掛け合わせているように、主人公はハードボイルド系だが教員となれば限界があるし、言葉遣いも抑え気味なのは仕方ない。それでも連作の最初から殺人事件である。解説によると「殺人」「浮気」という設定にPTAから抗議があったそうな。『○年の学習』の編集が変わってきた頃だったか。


 この主人公の、学校、教員、子ども等に対する見方は、当然ながら作者の見方に通ずる。一言でいうと「信用しない」に尽きるのかもしれない。信用を教える一つの大切な場として、学校があることは否定できないし、その表裏の関係を「事件」の発生によって、明確にしているのが、この小説の肝かなと括ってみた。


 現実の「非常勤」の教員も、多くの仕事においておそらく「信用」という面で壁を感じたり、考えたりすることも少なくないだろう。子どもの前では「先生」であることに変わりはないが、身分の現実は、根本で高い障壁として存在することは、現場を知る者なら誰しも理解している。昨今の「不祥事」にも通底する。


 FB上でも時々教員不祥事の話題が挙がる。先日、投稿した知り合いは「面接」の重要性について言及していた。私もコメントを書いたが、現場を知る者としては距離を感じてしまう。「不祥事」という判断が徐々に拡大する、そういう感覚に侵食されていく教育環境が、子どもに及ぼす影響を本気で考えねばならない。


 「おれだって弱い。おまえらだって弱い。弱い者同士、助け合って生きていかなきゃ、誰も幸せになんてなれないんだ」…非情勤である主人公が子どもたちに向けて語る。青臭いけれど真実だ。寛容さだけでは生きていけないけれど、寛容を誰もが認めない世界は怖ろしい。怖ろしさで徐々に塗りこめようとしている。

多元信仰に気づく

2016年08月08日 | 読書
 『朝採りの思考~シンプルな目を育てる』(外山滋比古 講談社)


 ぎょうせいから出版されていた『悠』という月刊誌に、7年間ほど連載されたエッセイの集約だ。私も定期購読したが、時期的にはその少し前に載っていた文章だ。外山氏の思考は、視点が豊かであり、凡人の凝り固まった常識と言われるものを見事に揺さぶってくれる。この本も考えさせられる項目が満載だった。


 「単元・多元」という項が実に興味深かった。『悠』は教育関係者対象の雑誌なので、たぶんにそうした面が意識されている内容が多い。「単元学習にふりまわされた戦後の歴史」という表現があるように、外山氏は欧米との比較から、日本の特性に目を向けず、単元的な発想を取り入れることには懐疑的、批判的だった。



 戦後、欧米の真似をして取り入れられたシンポジウムやディスカッションなどについて、厳しい一節がある。「日本の討論会は、ほぼことごとく失敗である」…自分も仕事に就き、数多く討論会に参加してきた。そして心から「成功」「収穫があった」と言えた会はどれほどあったか。そう、確かに「ほぼことごとく」ない。


 その理由は、「シングル・プロットの構造」が「日本人の感覚に合わない」からだと言う。確かにと思ってしまう自分がいる。「多元信仰」である日本人には、いわば雑多なことから自分に引き寄せる方が合うのだろう。菊池寛が案出したという座談会のような形が、興味や学びを立ち上がらせるということに納得する。


 数年前、ある研修会の場でグループ討議の冒頭に、先輩教師が「ここは雑談に徹してみよう」と放った一言がいつまでも忘れられない。それまではテーマ追究的な議論を好んで設定した自分が、何故か深い共感を覚えた。マンネリ打破という以上に、方法として目を見開かされた気がしたのだ。やはり多元信仰なのだ。

愚か者の話の読み方

2016年08月06日 | 読書
 『愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない』(伊集院静 集英社)


 伊集院の「自伝的長編小説」と称される作品は、たくさんある。

 全部とは言わないが多く読んでいる。
 描く時代によって違いはあるけれど、弟の死と肉親との確執、そして二度目の妻の死ということが、いずれも大きな位置を占めているし、繰り返し重ねられていく無常観のようなものだ。
 ファンは厭きずに、それを読む。


 今回登場する「愚者」つまり対役となる三人は、傍目からみたらいずれもアウトローだ。
 また作者自体がそれを上回る存在なので、無頼への愛こそがテーマと言って間違いない。
 しかしその無頼者たちを「愚者」と名づけたのだから、作者が伊達歩の名で書いたあの名曲「愚か者」の詞を、改めて紐解いてみるのも面白い。



 ♪愚か者よ おまえの流した涙を受けよう
  愚か者よ 私の胸に ほほをうずめて 今夜は眠れよ♪


 この出だしから始まり、次に少し「愚か」の中味が語られる。

 ♪見果てぬ夢に 男はさまよい 女はこがれる
 ルージュを引けば 偽りだけが いつも真実 それが人生♪


 そして、あのサビの部分が考えどころだ。

 ♪ごらん金と銀の器を抱いて
  罪と罰の酒を満たした
  愚か者が街を走るよ
  おいで金と銀の器を抱いて
  罪と罰の酒を飲もうよ
  ここは愚か者の酒場さ♪


 「金と銀の器」をどう見るか。
 直接的には「見果てぬ夢」の入れ物だが、夢そのものが形を成したとも言えるかもしれない。
 しかし、そこに注がれるのは「罪と罰の酒」

 うーん、ちょっとやりきれなくなる。

 唐突に、この歌は、マッチじゃ無理で、やはりショーケンでしょ、という結論になる。
 何も結論は出ていないが。


 さて本文に戻り、少し心に引っかかった箇所が一つある。
 作者の書いた小説を数多く読んだが、私の読んだ範囲で初めて「秋田」の女が登場する。
 当然、フィクションだから作者が材料にするわけだが、「自殺の多い県」としてのイメージを使っている。
 女の人物背景や、一人の愚者の自殺する場所として匂わせているのだ。

 払拭したいと周りが騒いでもどうにもならぬこともある。

 と、伊集院の書くような終わり方をしてみた。

様々な人たちの五輪

2016年08月05日 | 雑記帳
 朝の用事を早々に済ませ、10時からの五輪サッカー試合を見入った。日本勢も確かに頑張ったけれどそして可能性も感じるが、対戦相手の凄さが伝わってくるゲームだった。現地入りまでのトラブルの影響がどうのこうのと言っているレベルが、所詮日本の限界なのかな。「オシムの言葉」に書かれていたことと通じる。



 さて、いよいよ五輪のスタート。いくつか楽しみにしている競技がある。選手を注目しつつ、その周りにも多くの人が関わりを持っていることを想像したい。今朝のNHKローカルニュースで取り上げられた、青森のアパレルメーカー(この言い方でいいのかな)に感心した。五輪選手団のジャケットを製造する会社だった。


 わずか30人ほどのメーカーらしいが、選手等の開会式用と移動用の700着を作るという話だった。何故そこに注文されるか。当然その業種での実績があることは間違いない。コンパクトに語られたその内容は二つだ。型紙不要の注文システムと、縫製時のミリ単位での工夫だ。結局、他が目をつけない独創性となる。


 価値はそこに生まれる。しかし、当然それだけではない。できた衣服の仕上げそのものが肝心だ。言うなれば、体操におけるDスコア(難度点)とEスコア(実施点)の両方を兼ね備えていないと、完璧にならないと同じだ。その意味で五輪に取り上げられる事物は、全てそれをクリアする。競技選手だけではない。

あきらめ悪く、てく

2016年08月02日 | 雑記帳
 中島みゆきが歌う大好きな曲の一つ『命の別名』は、こんなふうに始まる。「知らない言葉を覚えるたびに 僕らは大人に近くなる けれど最後まで覚えられない言葉もきっとある」…還暦になっても身についていない言葉が多過ぎる。以前から辞書はよく引いていたが、最近益々頻繁になった。あきらめが悪いのか。



 今日も、友人の書いた小説が載っている同人誌を送っていただいたので、読み始めたら、中途まで進んで「あれ、なんて読むんだ?」(まだボケ症状は出ていないと思うが)と思った漢字が二つ出てきた。最初は「拙い」。これは「つたない」と読んでいたが、状況は違う。んっ、「ヤバい」か。あっ「マズい」だよなあ。


 辞書で確かめそうだったと納得。「まずい」という形容詞は漢字である場合、「不味い」と「拙い」に区分される。見出しは「不味い」となっているが、「拙い」は類語シソーラスによると実に多彩な「まずい」を含むことが判明する。「悪い」「不適当」「病が芳しくない」「下手」「危険」「大変だ」の六つ。知らないとまずい。


 もう一つは「銜えた」。これは「トーストを~」とあるので「くわえた」に間違いないと思ったが、気になる漢字だ。旺文社漢和辞典で「行」のところを調べたら、載っていない。あれっと学研漢和大辞典を開く。なんと「銜→金部六画」という表記が。おうっ金偏なのか。開くとそもそもが「くつわ」(馬の金具)だった。


 ちょうど今、クロスワードの言葉がわからないと家人からヘルプが。「てくてく歩くこと」を二文字でなんと言うか。「とほ」じゃ、少し変だ。しかも前後左右から頭は「て」。つまり「て○」だ。当てずっぽうで「てく」を引いたら、見事にその通り。知ってましたか。「てく」は「徒歩で行く・てくてく歩く」ことです。

八月にふさわしく

2016年08月01日 | 雑記帳
 玄関正面のパネルを換えるのは何年ぶりだろうか。ずっと漢字一文字の書を飾っている。その文字は、おそらく他の家では使わない。まあ、それはさておき、久々に「盆踊り」ものを出してみた。もう20年近くなるが、ある保護者の方からいただいたステンシルの版画である。八月に飾るにふさわしいと思い出したのだ。



 八月は、ある意味で一年の最高点と考え過ごしてきた気がする。夏休みに入り、研修会も数多くあったし、様々な場所へ出かけた。そしてお盆に関わる内々のこと、諸イベント…。職を退くと確かに風景が変わるが、そうであっても揺るがない季節の諸事はある。今まで手薄にしてきたことに、没頭してみるのもいい。


 先日見ていたTV番組のバックに、拓郎の曲『流星』が女性ボーカルのカバーで流れていて、妙に心に沁みた。それで棚から昔のCDを出して聴いている。ホントにいいなあ『流星』は、なんて思っていると、拓郎の曲は「夏」のイメージがほんとに強いと思う。古いが『夏休み』『暑中見舞い』『落陽』、『シンシア』も。


 千代の富士の訃報。黒い噂もあったが、間違いなく相撲全盛時のスーパースターの一人だった。同齢なので、ああと思ってしまう。どうしても印象的なのはあの引退会見。「体力の限界」と唇を噛み締めた姿は忘れられない。合掌。今夏は亡き母の初盆でもある。重ねてお世話になった方々を思い出す夏になりそうだ。