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非情な非常勤であっても

2016年08月10日 | 読書
 『おれは非情勤』(東野圭吾 集英社文庫)

 久しぶりに読む東野圭吾作品。学校という舞台設定に少し惹かれた。ごろり寝転んで読むにはいいと思ったが、なんとこれはあの学研『5年の学習』が初出、いわゆるジュブナイルだった。展開の妙はさすがでも、なんとなく駄作に思えるのは、やはり学校に勤めた者としてディテールを物足りなく感じるからだろう。



 「非常勤」と「非情」を掛け合わせているように、主人公はハードボイルド系だが教員となれば限界があるし、言葉遣いも抑え気味なのは仕方ない。それでも連作の最初から殺人事件である。解説によると「殺人」「浮気」という設定にPTAから抗議があったそうな。『○年の学習』の編集が変わってきた頃だったか。


 この主人公の、学校、教員、子ども等に対する見方は、当然ながら作者の見方に通ずる。一言でいうと「信用しない」に尽きるのかもしれない。信用を教える一つの大切な場として、学校があることは否定できないし、その表裏の関係を「事件」の発生によって、明確にしているのが、この小説の肝かなと括ってみた。


 現実の「非常勤」の教員も、多くの仕事においておそらく「信用」という面で壁を感じたり、考えたりすることも少なくないだろう。子どもの前では「先生」であることに変わりはないが、身分の現実は、根本で高い障壁として存在することは、現場を知る者なら誰しも理解している。昨今の「不祥事」にも通底する。


 FB上でも時々教員不祥事の話題が挙がる。先日、投稿した知り合いは「面接」の重要性について言及していた。私もコメントを書いたが、現場を知る者としては距離を感じてしまう。「不祥事」という判断が徐々に拡大する、そういう感覚に侵食されていく教育環境が、子どもに及ぼす影響を本気で考えねばならない。


 「おれだって弱い。おまえらだって弱い。弱い者同士、助け合って生きていかなきゃ、誰も幸せになんてなれないんだ」…非情勤である主人公が子どもたちに向けて語る。青臭いけれど真実だ。寛容さだけでは生きていけないけれど、寛容を誰もが認めない世界は怖ろしい。怖ろしさで徐々に塗りこめようとしている。