すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

表現と表出の場の逆転

2008年06月08日 | 読書
 親密圏における子どもたちのふるまいが「素の自分の表出」から「装った自分の表現」へとシフトしているのに対して、公共圏のそれは「装った自分の表現」から「素の自分の表出」へと逆にシフトしているのです。

 『「個性」を煽られる子どもたち』(土井隆義 岩波ブックレット)

 修学旅行引率中に、電車の中で見かけた女子高校生とOL風の二十代をふと思い出した。
 高校生は妙に近くの知り合いを気にしながらの会話、動作をしているが、周囲にいる乗客にはほとんど注意を払わずに大股開きでふんぞり返っている。隣のOL風は化粧を始め、マスカラをひくことに余念がない。視線は手鏡にしかない。

 関わりの薄い周囲に対して「表現」をしていることに疲れてきたからこそ、家族や友人には安心して「表出」できるという面が確かにあった。
 しかし、それが逆の道を歩き始めたということになる。
 根はまず家族にある。その自覚が肝心だ。

好きな大人の条件

2008年06月07日 | 読書
 良い教育を成り立たせるための条件は、子どもたちにとって「好きな大人」がいることです。学校でも塾でも地域にでも「好きな大人」がいれば、大人を信頼することができる
 角田明『人は人により人になる』(MOKU出版)

 では、子どもが大人を好きになるためにはどんなことが必要か。
 やさしさであったり、話しやすさであったり、そうしたかかわりを持てるための条件がある。
 むろん、それだけではない。表面的に取り繕うことのできない姿に、子どもは惹かれていくはずである。
 それは一途に何かに打ち込む激しさか。
 憧れの対象となるべき力や技の強さか。
 もしくは、思いや考えを受け止め包んでくれる広さか。

 子どもと関わる仕事や日常がある大人としては、自分が何を身につけているか問われるなあ。

可能性の表現としての言語

2008年06月05日 | 読書
 われわれは現実に生きるしかない。この現実の中で、空気振動やインクの染みや塩化ビニールの塊を適当に操りながら、さまざまな可能性を表現するのである。
 野矢茂樹 『本』(2008.5 講談社)

 「語りえぬものを語る」という題の連載に、少しハマッテいる。難解な部分もあるのだが、それをまた繰り返し読んでいると、味わい深く感じたりしている。
心の中で、さまざまな場面とつき合わせてみたり、他の言葉に置き換えられないか探ってみたり…。
 そういう自分もまた現実であること。この現実は、言語によって形をなしえていること。言語が分節化されているからこそ論理が生まれること。などと、今更ながらに考えたりしているのである。

 そして「可能性の表現」という面で、自分の言語はあまり運用できていないなあ、萎んできているなあと思う。
 それは同時に自分の可能性を萎ませていることだと思う。

境界の外へ通用するレベル

2008年06月04日 | 読書
 相手に、少なくても「この人の主張に賛成できないが、この人なりに真剣に考えたメッセージであることは確かだな」と伝わるレベルのものがなければ、境界の外には通用しない。
 寺島実郎 『PRESIDENT 2008.6.16』(プレジデント社)

 最初は単なる興味であったり怒りであったりするものが、熱意となったときに、対象をよく見つめ、理解し、ひとりよがりにならない形で自論を展開できるようなレベルだろうかと考える。

 子どもの教育に関しては、結局エネルギーだけ伝わることがあるが、大人を動かすにはそのエネルギーが表面に出ることが必ずしもいいことではない。相手が、自分は受けとめられていると思うことや共通のものを見い出す論理を感じたときに、心や身体が動いていくのではないか。

素晴らしい教育は

2008年06月03日 | 読書
 教育とは、政治や経済の諸事情から超越すべきものである。人々がボロをまとい、ひもじい思いをしようと、子供たちだけには素晴らしい教育を与える、というのが誇り高い国家の覚悟と思う。
 『この国のけじめ』(藤原正彦著 文春文庫)

 ボロをまとうこともなく、ひもじい思いもすることがないという現状が問題なのか。
 そこまでの繁栄を求める中で、子どもの教育に対する本質的な点を見失ってきたのか。
 警告は幾度となくあったというのに…。

 それにしても、教育が政治や経済と切り離せない現実があることは自明である。
 現場に即していえば、発達段階を踏まえた教育内容の設定や、教授法のあり方、それを支える条件整備こそが問題なのである。政治や経済の波を冷静に見極め、受けとめるしたたかさが必要だ。
 私たちが語るべき「素晴らしい教育」は理念ではない。