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チカラのミカタ

2010年04月24日 | 雑記帳
 「みんなのチカラ ひとりのチカラ」
 
 20年度、前任校で掲げたスローガンだった。
 なぜカタカナを使ったか、当時の文書にこんなふうに書いていた。

 「力」を強調するためにカタカナを使用した。「力」は肉体の働き、気力、能力、努力、しるし、エネルギー等々さまざまな語意のある言葉であり、諸活動に対応した意味づけができる。 

 カタカナ書きということで、思い浮かぶのは「ヒロシマ」。
 なぜ広島でなくヒロシマなのか。この理由は想像しやすい。
 
 もう一つ、「ゴミ」。
 これは以前別ブログにも書いたことがあるのだが、今はなき名雑誌?『ダカーポ』の金田一秀穂氏による連載のなかの文にあった。
 なぜ「ゴミ」と書く(そういう表記が多い)のか。

 かいつまんで言うと、金田一氏は強調ではないという。
 ゴミと書く漢字はすべて当て字であり、ひらがなだと語の区切りをはっきりしないという点が生ずるためであると説明する。
 そして、もう一つの理由として、ゴミが口語的なことを挙げている。

 別に「チカラ」という表記は一般的ではないので、それが当てはまるわけではないが、口語的であるとは言えるかもしれない。
 「チカラがほしい」「そんなチカラ出せないよ」「チカラをかしてください」…それだけ生活に密着した言葉だから、音声言語優先でカタカナでもいいかと考えてしまう。
 でも結局「力」という漢字がすぐに思い浮かぶので、カタカナに流れてしまうことはないのか。

 三月に創刊された『教師のチカラ』(日本標準)の編集後記に、杉渕鐵良氏がこんなことを書いてある。

 力がカタカナになっています。いろいろな含みがあるのです。
 知から 智から 血から、治から
 エネルギー、オーラ、人間性。いろいろな含みがあります。
 
 そう考えるとカタカナ書きしかないだろうなと思わされる。
 「教師の知から」や「教師の治から」はなかなか考えが広がりそうなイメージが湧く。

 しかし、間違っても「教師の遅から」や「教師の痴から」は避けなければなりませんね。

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