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世界を救えなくても…

2007年09月16日 | 読書
 『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』は、第一話がタイトルと同じであり(つまり「はだかの王様」を扱い)、おしまいの「泣いた赤鬼」まで全15話構成である。
 集英社の雑誌の連載で、いくつかの号の話が割愛され新書にまとめられた形のようである。

 けして童話にあかるいわけではないので、いくつか読んだことのない話も取り上げられていたが、それなりに楽しく読むことができた。
 文章のスタイルは全てが同じではなく、続き話あり途中の書かれていない部分の想像(妄想)あり、または自分の子供に読んで聞かせる形あり、と様々だったこともあるだろう。

 読み通して、このパロディ化のストーリーは当然違うわけだが、共通の要素を持つことが繰り返されていることにも気づく。これは筆者である森の信条めいたものではないかと考えられる。
 自分なりの視点であるが、次の三つが思い浮かぶ。

 いつも立場を換えたらどうか考えてみる
 何気なく使っている言葉を疑ってみる
 過ちは繰り返されるものだ

 メディアの世界に長くいる森は、そう思わざるをえない日常をずいぶんと目にしているようだ。ほんの少し視点をずらしただけで、全く違うものになってしまうことを肌身で経験しているに違いない。
 社会風刺としても十分に読める内容だった。
 
 さて、あとがきから想像したことがあって注目した第一話の行方。
 初っ端から森は結末を二つ用意して読者に委ねる形をとっている。しかし、その後の十四話にはそんな形式はない。やはりここに森は自分自身を重ねているのではないか。
 「王様は裸だ」と言った子供の父親と、王に仕えていた将校が仲良くなり、将校がやがて将軍になるところまでストーリーが続いたところから、結末が二通りに示されている。
 二つの結末には、どちらも教訓の形が示されていて以下の部分が共通している。

 教訓。鈍さは時として世界を救う。しかし持続はしない。

 そして、最後がこのように分かれる。

 何よりも自分を救えない
 時には世界を壊す

 森は「僕は本音でどちらでもよし」と言う。
 どちらかを選ぶか、いやどちらもありなのか…ここははっきりさせてほしいなあ。自分のことなんだから。
 それとも世界を救えない自分にいらだっているのか…。

 実は、もっと印象的なのは「みにくいあひるの子」の巻である。
 わが子とおぼしき読み手を登場させた森は、その子にこんなことを言わせて、アンデルセンを皮肉っている。
 ここにも、自分を垣間見ているのか。

 「ダメじゃんアンデルセン。他人の評価で終わらせちゃ」
 


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