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甲子園は終わっていた

2010年08月23日 | 読書
 それほどの高校野球通でもなくファンとも言えない。
 この夏も甲子園では県代表が一回戦で大敗したので、興味はほとんどなくし、テレビでもニュース程度しか視ていなかった。
 そんな時、いつもの書店で見かけた文庫本の表紙に目が留まる。

 『甲子園が割れた日』(中村 計著 新潮文庫)
 
 高校当時の松井秀喜がバットを構える写真があり、次の副題が記されている。

 松井秀喜5連続敬遠の真実
 
 1992年。その夏も対戦をリアルタイムで視ていたわけではないが、その出来事は印象的だった。
 まだ仲間とサークルを続けていた頃で、「道徳で扱ったらどうかな」と話題にしたことがある。自分の周囲でそのことは実現しなかったが、全国的には当然取り上げた実践もあることだろう。

 この本は、その1992年夏の出来事について、当時浪人生だった筆者が強く心に引っかかりを覚えながらも「(関係者の話を聴くことを)10年待とう」と決意し、スポーツジャーナリストとして自立した時期にそれを実現させたものである。

 読み進んですぐに、自分がいかにも教員的な発想で「道徳で扱ったら」と考えたことが何かひどく浅いように思われてきた。
 それだけ広範囲の取材があり、関係者から興味深い証言、思いを引き出している書物だった。

 少なくとも、直接対戦した松井と河野(明徳の投手)、また山下と馬渕(両校の監督)という問題ではない。チームに所属した全員と両校を取り巻く環境、そしてその「敬遠問題」を実況し、報道した者や機関…様々な要素が絡み合って、一つの流れを作っているように見える。
 そしてその流れも立っている場所によって、かなり景色が違って見える。

 また、その流れを形づくる一人一人の「出演者」の感情が微妙に揺れ動いてることに、時間の重みや言葉の持つ曖昧さについて考えさせられ、すっぽりと入り込んで読むことができた。
 筆者の追究姿勢や筆力が大きいとも感じた。

 この「敬遠問題」は、様々な「違い」でとらえることができる。
 「監督の指導観」、「野球と高校野球」、「学校や地域による甲子園の持つ意義の位置づけ」…そんなふうに、両端にある正解や信念に対して、当事者たちがいかに自分を近づけて考えられるか(もしくは、その距離感を受けとめながら生きているか)、この本のテーマはそこにあるような気がしてきた。

 その意味で小学生では無理だと思うが、中学生以上ならば恰好の道徳教材となり得るのでは…そんな考えもまたぞろ浮かぶ。

 ほんの一試合の攻防であっても、掘り下げていけばそれぞれの人生のどこかにかかわり合っている、そんな見方もできるだろう。
 読み終えたときに、残念ながら今年の甲子園は終わっていた。

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