すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

岸本佐知子の目標

2019年12月26日 | 読書
 『ちくま』1月号の連載に、岸本はこう書いた。

Vol.183
 「目標は、向こう三十年以内の恵方巻きとバレンタインとハロウィンの殲滅だ。同志随時募集中


 今月号の題を「シクラメン」とし、年末に飾ったり贈りあったりすることに疑問を抱いていることから書き出し、世の中の「しきたり」全般に対して苦手と告白した。
 ひなまつりを初めとして、様々な「しきたり」にイチャモンをつけた末の結句が上の文章である。

 妄想エッセイの達人としては、やや妄想度は低く、実際の本音が強い文章と言えるかもしれない。


 ところで、極論を言えば世の中はしきたりだけで構築されているとも言えるし、それなしに過ごすことはきわめて困難といってよかろう。少なくとも「社会生活」とはそんなものだ。

 また、しきたりが及ぼす範囲は、大陸や国全体に通ずるものから、家の中だけのことといった極めて限定的なものまで、無段階と呼んでいいほど細分化されている。

 つまり、岸本が忌み嫌う「しきたり」とは、例示をみれば国レベルで流通する、そして明らかに経済効果が狙われたイベント要素が強いものだとわかる。

 その意味では「私は、世のしきたりをひそかに破壊するテロリストになると決めた」と書いたことには、拍手を送りたい。
 正月の「あけましておめでとう」に対しても、「え…何がですか?」と返事をすると書いているぐらいだから。
 そのくらいの気合いでもって撃ち落としていけば、目標は可能かもしれない。

 ただ、応援したい気持ち、そして秘かに同志になりたい気持ちもあるにはあるが、「しきたり」なしにはきっと「自分」の存在そのものが揺らぐであろうと予想される。


 正月に手を合わせ神仏に祈るというしきたり一つとっても、そんなことをしなくとも、すっくと姿勢を正していければいいが、それなしでは常に意識続けなければならない面倒さがでてくる。だから、しきたりに寄り掛かって、それを味方にして、人は暮らしていくのだろう。

 味方に出来るしきたりを自ら選べばいい。

 と私はそんな結論に達したので、同志には手を上げられない。

 テロリストの末路はいつも孤独だから、ご随意に。