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桜と絵本と豆乳と

ゴールを見る良い身体の向き

2008年01月21日 | 読書
 『「言語技術」が日本のサッカーを変える』(田嶋幸三著 光文社新書)を読んだ。

 なぜサッカーか。
 サッカー以外のスポーツを題名に当てはめても頷けるが、他に比べてその意味合いが一層強くなるには訳があるだろう。
 一つのボールの行方をめぐって競技するスポーツは他にもあるが、フィールドの広さ、人数という要素を絡めたとき、サッカーがより「つなぐ」という意識を明確にするからだろう。

 意図的な戦術を機能させていくためには、言葉は不可欠であり、コミュニケーションの重要性が浮かび上がる。
 つまり、つなぐための言語技術である。つなぐのはボールであり、プレイヤーとプレイヤーであり、指導者とプレイヤーであり、そして…その先も田嶋氏は見据えているようだ。

 なんのための言語技術か。
 飛躍的な交通手段、情報手段の発展によって、様々な人との接触、交流や交渉なくして生活は成り立たなくなってきている。異なる文化を持つ他者と互いに理解しあうためには明確な表現手段や、論理性を高めておくことが必須といえよう…大まかにそんなふうにとらえていたが、それだけではないはずという思いもあった。
 この本を読んで、納得できることばが前書きにあった。

 自己決定力

 流動性が高い世の中にあるからこそ、自分で選択し、決断していく強い意志が必要だ。言語技術を学んでいくことはその意志を鍛える訓練になりえると思う。言葉は他者と自分をつなぐ道具であるとともに、自分を見つめていくための道具でもある。

 しかし、自己決定力は言語技術を備えたからといってうまく機能するものだろうか。
 大切な要素がある。
 言語技術をテーマにしたこの本の中に、およそ似つかわしくない次の言葉が取り上げられていることに深い意味がある。

 「ならぬことはならぬものです」

 会津若松の藩校「日新館」に伝わる「什の掟」の象徴的なことばである。
 武士道精神そのものというより、人間として基本・素養といったことの大切さである。
 生活の芯となっていくべき強い判断基準である。これはやはり家庭教育・初等教育が大きく背負うべきものだろう。

 田嶋氏は、サッカーで「判断」していくときに必要なこととして「良い身体の向き」「視野」を挙げている。
 これはサッカーに限らず全てに通ずることだ。
 どこがゴールか見きわめようとする良い身体の向きこそ、まず求められることを忘れてはいけない。その意識をかなり強く押し出す必要がある。