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音読のことを考えていたら…

2008年01月18日 | 雑記帳
 月曜日の校内研修で「音読」について少し話すこととなった。

 数年前にも町内の研修会で「国語の授業づくり」について1時間ほど話したときも、切り出しは「音読」であった。その時にも明治図書の「国語教育」誌をあたってみたのだが、「音読」を特集テーマに掲げている号は少ないようだ。
 80年代後半からの号が揃っているが、一番最近では2004年1月号で、特集名は「『音読・朗読』の力を国語教室に生かす」。それ以前だと96年4月号までさかのぼり、特集名は「教室『音読・朗読・群読』発表会の演出」。それより前になると94年に6月と9月に取り上げられている。このあたりは少し注目が集まっていたのかもしれない。むろんこれだけでは判断できないが、興味関心が寄せられていないか、指導法的なことは煮詰まっているのか…いずれかだろう。

 いくらか話の構成を考えてみたら、「音読」は脳科学のデータが表立ってきてから単に国語という教科の範疇だけでは語れなくなっていることに改めて気づく。
 従って話の筋としては「教科学習全体」と「国語の授業」という二本立てになっていく。しかし、音読という活動自体はいわば全教科、領域で取りあけるという方向であっても、結局「音読を学ぶ」場は国語科であることに変わりはない。
 
 それにしても、そのための方法についてどのくらい常識的になっているのだろうか。
 たとえば、市毛勝雄先生がよく書かれている「一斉読みのやや速度を速めた音読」などは、どのくらいの教師が知っているものなのか。そもそもこの自分でさえ、知っていたとはいえ実際に見聞きしたのは十数年前である。他県での研究会で参観した一年生の音読に対して質問(疑義をとなえる形)をしたのだが、協議に参加していた方々には常識だったようで、無視されたことを覚えている。またそれ以降そうした指導を見かけることはないのもまた現実である。

 音読というきわめて一般的だろうと思われている学習活動であっても、広まっている方法などごくわずかなものではなかろうか。
 実際、そうした細かな点まで実践交流しあえる場や時間が圧倒的に不足していることは明白だ。
 教育技術に関する情報は、以前と比べ物にならないほど溢れているというのに…。

 何か三十年近く前とあまり変わり映えしない現実ではないか、という思いが頭をもたげてきた。