飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

拭いきれない或る考え その2

2018-09-29 13:57:45 | 日本論と宗教論
何億年か前のこと。大気中にそれ以前は全く含まれていなかった酸素を大量に吐き出す生物が生まれ、地球の大気はこの酸素によってあっという間に汚染された。

地球環境の破壊には厳密には三つの意味がある。

⑴余りにも環境が変化し過ぎていかなる生物も住めなくなること

と、

⑵余りにも環境が変化し過ぎて環境破壊の原因を生み出す生物種を含む一部の生物種が住めなくなること、

それに、

⑶余りにも環境が変化し過ぎて環境破壊の原因を生み出す生物種以外の一部の生物種が住めなくなること、

この3つである。

私が先の記事で問題にしているのは⑵の環境破壊である。

私の思考は⑴の環境破壊をイメージする程に大雑把ではないし、⑶の環境破壊をイメージする程に感傷的でもない。

⑵の環境破壊とは要するに、この地球が人類のせいで他の誰でもない人類そのものの健全な生存に相応しくないものとなりつつあるということを意味している。

この環境変化に適応する者と適応できない者に人類が大きく別れ、適応できないものが滅び、適応する者が次の人類となるのか?(自然淘汰)

この環境変化の要因となるものをそのメリットもろとも放棄して、これまでのような我々の知っているような人類として、今後も暫くの間は存続できるようにするのか?

適応できない者の認定とその駆除を自然に任せず、人類の代表者が秘密裏に行うのか?(人口的な淘汰)

この環境変化の要因の中に、問題を認識できない者や、認識しても解決策を理解できない者、解決策まで分かっているのに実行しない者、即ち、状況改善に役立たない者達をも含めて考え、人類の代表者が、その者たち自身には自然で日常的な死と誤解させる形で、秘密裏に、彼らの駆除に当たるのか?

このように考えていくと、所謂「悪魔崇拝者」達を「悪魔崇拝者」と称して蔑み、憎悪し、排除するという、現在あちこちのサイトで普通に見られる考え方では到底解決できない問題に、彼ら「悪魔崇拝者」が取り組んでいたことに気づかされる。私が考えているのはこのようなことである。

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