例えば京都大学の「英語」の入試問題は、本当に英語の問題でしょうか?英文を日本語に訳すことも、日本語を英語に訳すことも、半分以上は日本語能力の試験になっているのではないでしょうか?
提示された英文の構造を私は完全に把握することができるし、実際に日々受験生にそれを解説して見せてもいますが、本当は、そんなものは所詮、形式的な儀式です。私の持っているのと同じようなスキルを完全に身につけるなんて、私が中学生の頃から長い時間をかけて育て上げた生徒達か、時々現れる特別に優れた生徒以外には、そもそもが無理な話なのです。
その形式的な儀式の奥の方で私が本当に意図しているのは、何らかの理由で抑圧されていることの多い日本の若者の日本語能力をその抑圧から解放して自由に成長させることです。彼らは a native Japanese であり、a native Japanese とは要するに日本語の天才のことです。その天才を解放してあげることで、たとえ英文の構造が完全に把握できていなくても、受験生がかなりいい訳を仕上げられるようになる。私の主催する予備校の授業は、英語も国語も、解法解説は勿論のこと、それ以上に、演習と即時採点、添削が重視されていて、そのような授業に毎日出席してたっぷりと訓練できるように工夫しているのですが、それも全て今述べたことのためなのです。
母国語の能力を高いレベルに高める以外に人間がロゴスを体現することはできません。ロゴスを体現した人間は、完全なる人間の理想像を常に感じ取りながら生活することができ、人間社会のあちこちで日々発生している問題の本質を即座に見抜き解決へと導くことができます。これが文系の力というものなのです。伝説の中で語られる空海さんや、釣りバカ日誌の浜ちゃんのイメージを思い浮かべるのが最も分かりやすい。文系の力とはまさにあれなのです。
この母国語能力の鍛錬に、現状では、英文和訳や和文英訳が最も有効な手段となっているというわけです。母国語能力の十全な発揮とは、母国語能力がロゴスそのものに統制されて動くということですが、母国語とは異なる外国語を母国語に翻訳しようとする現場に立ち続けない限り、母国語も人間言語そのものが派生してできたものに過ぎないこと、人間言語そのものとの結びつきがないと浅く歪んだものになること、が実感できない。母国語を相対化して、そうして自分の母国語能力を健全に育てるということがなかなかできない。このようになっているのです。外国語の勉強は母国語能力の鍛錬に不可欠なのです。
私には古文の教師として平安時代の貴族の文章や和歌を分析する機会も多いのですが、彼らの文章力が物凄いレベルになっている。外国との関係を絶って国風文化が栄えたとされ、その国風文化の一例が彼らの文章力である筈です。ところが実際に、彼らの文章を具に研究すると、彼らの外国語の知識がかなりの高みにあることが分かるのです。例えば「帝......とのたまひけり」という大和言葉の構文は「......」の部分にごく短い文しか入れられず、ユーラシア語の「S V that ......」という構文は「......」の部分の終わりの地点が明示しにくい訳ですが、彼らはこのことを踏まえて、その両者の弱点を補うかのように「帝のたまひけることには、.........とのたまひけり」という表現をしてあるのです。こうすれば「......」の部分に幾らでも長い文章を入れることができる。これは彼らが外国語の知識に基づいて意図的に開発した表現であること明らかです。国風文化と言いながら、彼らの外国との深い繋がりは水面下で途絶えることなくあったに違いないと私が考えるのは、このような事実を知っているからです。
提示された英文の構造を私は完全に把握することができるし、実際に日々受験生にそれを解説して見せてもいますが、本当は、そんなものは所詮、形式的な儀式です。私の持っているのと同じようなスキルを完全に身につけるなんて、私が中学生の頃から長い時間をかけて育て上げた生徒達か、時々現れる特別に優れた生徒以外には、そもそもが無理な話なのです。
その形式的な儀式の奥の方で私が本当に意図しているのは、何らかの理由で抑圧されていることの多い日本の若者の日本語能力をその抑圧から解放して自由に成長させることです。彼らは a native Japanese であり、a native Japanese とは要するに日本語の天才のことです。その天才を解放してあげることで、たとえ英文の構造が完全に把握できていなくても、受験生がかなりいい訳を仕上げられるようになる。私の主催する予備校の授業は、英語も国語も、解法解説は勿論のこと、それ以上に、演習と即時採点、添削が重視されていて、そのような授業に毎日出席してたっぷりと訓練できるように工夫しているのですが、それも全て今述べたことのためなのです。
母国語の能力を高いレベルに高める以外に人間がロゴスを体現することはできません。ロゴスを体現した人間は、完全なる人間の理想像を常に感じ取りながら生活することができ、人間社会のあちこちで日々発生している問題の本質を即座に見抜き解決へと導くことができます。これが文系の力というものなのです。伝説の中で語られる空海さんや、釣りバカ日誌の浜ちゃんのイメージを思い浮かべるのが最も分かりやすい。文系の力とはまさにあれなのです。
この母国語能力の鍛錬に、現状では、英文和訳や和文英訳が最も有効な手段となっているというわけです。母国語能力の十全な発揮とは、母国語能力がロゴスそのものに統制されて動くということですが、母国語とは異なる外国語を母国語に翻訳しようとする現場に立ち続けない限り、母国語も人間言語そのものが派生してできたものに過ぎないこと、人間言語そのものとの結びつきがないと浅く歪んだものになること、が実感できない。母国語を相対化して、そうして自分の母国語能力を健全に育てるということがなかなかできない。このようになっているのです。外国語の勉強は母国語能力の鍛錬に不可欠なのです。
私には古文の教師として平安時代の貴族の文章や和歌を分析する機会も多いのですが、彼らの文章力が物凄いレベルになっている。外国との関係を絶って国風文化が栄えたとされ、その国風文化の一例が彼らの文章力である筈です。ところが実際に、彼らの文章を具に研究すると、彼らの外国語の知識がかなりの高みにあることが分かるのです。例えば「帝......とのたまひけり」という大和言葉の構文は「......」の部分にごく短い文しか入れられず、ユーラシア語の「S V that ......」という構文は「......」の部分の終わりの地点が明示しにくい訳ですが、彼らはこのことを踏まえて、その両者の弱点を補うかのように「帝のたまひけることには、.........とのたまひけり」という表現をしてあるのです。こうすれば「......」の部分に幾らでも長い文章を入れることができる。これは彼らが外国語の知識に基づいて意図的に開発した表現であること明らかです。国風文化と言いながら、彼らの外国との深い繋がりは水面下で途絶えることなくあったに違いないと私が考えるのは、このような事実を知っているからです。
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