gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

加藤清正と熊本城 その4(本丸御殿・昭君の間)

2010-01-15 21:04:13 | 熊本の歴史遺構を訪ねて

このシリーズも今回で4回目となりました。

今回は前回に引き続き、本丸御殿の内部をご紹介したいと思います。

 

各部屋を結ぶ廊下には、再建にまつわる様々な展示物や再建の際に出土した遺物などが展示されています。

 

 

ここは控えの間。

前回の記事でご紹介した本丸御殿の玄関は階段によってここにつながっています。

したがって、ここは今風に言えば、受付とロビーにあたる場所であったといえます。

 

 

控えの間の奥に置いてあった屏風です。

見事ですねぇ~。

 

 

こちらが“梅の間”。

ここは襖によって仕切られたかなり広い広間で、写真手前が下座、奥が上座になっています。

重要な決議を行う際には、ここに細川家家臣団が裃を着用して殿様に拝謁していたわけですね。

 

 

“梅の間”外側の廊下です。写真右が“梅の間”になります。

 

 

廊下からお白洲を眺めると気分はもう“遠山の金さん”です。

当時は、石垣の上に櫓や長塀などの建物が築かれていたと思われます。

 

 

“梅の間”上座右に殿様の席であった“昭君の間”が見えてきます。

奥の部屋が“昭君の間”で、一段高い所に細川の殿様が着座していたそうです。

 

 

こちらが“梅の間の最上座と床の間。

このあたりに家老クラスの家臣が着座したのでしょうね。

それにしても見事な床の間です。

 

 

“昭君の間”の名前の由来は、中国の故事“王昭君悲話”を題材とした絵が襖や床の間に描かれていたからなんだそうです。

 

“王昭君悲話”についてはこちらをご覧下さい。↓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%98%AD%E5%90%9B

 

ただ、豊臣家に対して、生涯忠誠心を抱き続けた加藤清正は、徳川家康が豊臣家を滅ぼそうとした際には、秀吉の子である秀頼を大阪から熊本城に迎え入れ、秀吉恩顧の西国大名を結集して家康に反旗を翻すつもりであったと言われています。

そのため、こうした事態に備えて秀頼の居室として作られたのがこの部屋であり、“秀頼(君または将軍)を招く”ということから“招君または将軍の間”と呼ばれていましたが、徳川方からの追求を逃れるために“王昭君悲話”の絵を描かせ、“昭君の間”と名付けたという説もあります。

 

写真左が殿様の着座位置にあたるのですが、写真正面の襖の奥には部屋があって殿様が着座する際には、この部屋に数名の腕利きの家臣が常に控えていて、何か事があった場合には、ここから飛び出して殿様を守ったそうです。

 

 

“昭君の間”の天井画です。

見ていてため息が出るほど贅の限りを尽くした物でした。

 

 

そしてこちらが殿様の御座と床の間です。

当時の加藤家の豊かな財力を知る事が出来ます。

 

 

さて、“昭君の間”を後にして、本丸御殿の出口に向かう途中にも色々な展示物が置かれていました。

 

これは、本丸御殿の再建工事の際に出土した西南戦争当時の“熊本鎮台本営之印”。

熊本鎮台の司令官が使っていた職印です。

この印鑑が出土した事から、西南戦争当時、この本丸御殿には熊本鎮台軍の中枢(司令部)が置かれていたのではないか?と言われています。

 

 

同じく再建工事の最中に出土した拳銃。(写真左。右は同型のモデルガン)

この拳銃はアメリカ製のS&W No.2 という型だそうで、坂本竜馬が寺田屋事件で暗殺された時に持っていたものと同型のものだと言われています。

当時、拳銃は高級将校しか持つ事が出来ませんでした。

 

 

こちらは潰れた水筒。

明治新政府軍の水筒は珍しいのではないでしょうか?

 

 

これも同じく出土した双眼鏡。

 

 

出土したたくさんのボタン類と菊の御紋の徽章。

右に見えるのは蹄鉄です。

こうした出土品を見ていると、いまから約130年前に、この地で政府軍と西郷軍との間で激しい戦いが行われたことを実感することができました。

 

 

こちらは今回の本丸御殿再建の際に製作された日本画の描かれた板戸。

こうしてみると日本画って緻密で繊細、色使いも上品なんですね。

 

 

 

 

本丸御殿を後にしたまめ八は、次に天守閣に向かいました。

次回は、天守閣と加藤神社をご案内致します。     つづく

 

 


コメント

--------これより以下のコメントは、2013年5月30日以前に-----------
あなたのブログにコメント投稿されたものです。

yut666 [2010年1月16日 10:28]
おはようございます。
梅の間と昭君の間は、すごく豪華というか贅を尽くしたという感じですね。
見ていてため息が出そうです。
まめ八 [2010年1月17日 11:06]
yut666さん、おはようございます。
続けてのコメント、有難うございます。

この本丸御殿を見ていると、当時の大名の財力、権力の強大さを窺い知る事が出来ました。
しかも、秀吉と同様、水呑み百姓出身でありながら清正の芸術的なセンスの高さには驚かされてしまいます。
また、ここまでの高度な土木工事や内装工事の注文に対して、九州の片田舎熊本にそれに応える技量を持った職人や技術者がいたものだ、と思います。
案外、近世時代の日本の技術力は我々が考えているよりはるかに高度な物であったのかもしれませんね。
にーなな [2010年1月30日 15:41]
こんにちは。
本丸御殿。。素晴らしいですね。とても手の込んだ豪華な造りが伝わってきます。。
当時の職人さんの力の結晶ではないでしょうか。
まめ八 [2010年1月31日 20:18]
にーななさん、こんばんわ。
怒涛の4連投、有難うございます。

熊本城の本丸御殿は本当に見ごたえありますよ。
江戸時代の殿様がどれほどの財力を持っていたかということを肌で感じ取る事が出来ます。
しかも家臣が百名以上並ぶ事が出来る大広間など、その権力の凄さも窺い知る事が出来ました。
おぺ [2010年2月7日 22:31]
おぉ~っ、本丸御殿すごいですね。
ここまで豪華絢爛名な再建はさぞ大変だったことでしょう。
名古屋城も御殿を再建しようってことで、寄付を募ったりしてます。どこかに名前でものっけてくれるならもう少しだすんだけどなぁ。
まめ八 [2010年2月8日 21:13]
おぺさん、こんばんわ。

名古屋城でも本丸御殿の再建計画が上がっているのですね。名古屋城は御三家の居城ですからさぞかし立派な御殿だったと思います。
もし再建されたら是非観に行きたいですね。


>どこかに名前でものっけてくれるならもう少しだすんだけどなぁ。

熊本城の場合、再建資金を募るために“一口城主制度”ということをやっているみたいです。
寄付を行った人の名前を“永代帳”に記載されて永久保存されるほか、天守閣には寄付者の“芳名板”が掲示されるみたいです。
また、2009年に始まった新制度では、熊本城の一年間無料入城パスを寄付者に配布することになっているそうです。
http://trendy.nikkeibp.co.jp/tvote/poll.jsp?MODE=RESULT&VIEW=Y&POLL_ID=20090528

河村たかし市長に提案されてみては如何でしょう?o(^▽^)o


最新の画像もっと見る

コメントを投稿