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加藤清正と熊本城 その5(天守閣と加藤神社)

2010-01-17 15:36:26 | 熊本の歴史遺構を訪ねて

このシリーズも5回目となり、終盤を迎えました。

一つのシリーズをモチベーションを維持しながら続ける難しさを感じているこのごろです。

 

さて、本丸御殿を出ると天守閣広場に出ます。

この天守閣広場の本丸御殿前には、加藤清正が手ずから植えたとされる銀杏の木がそびえています。

この銀杏の大木には次のようなエピソードが残されています。

 

清正はこの銀杏の木を植えた際に、周囲の者に“この銀杏が天守閣と同じ高さになった時、この城は騒乱に巻き込まれるだろう”と言ったそうです。

それから約270年後、この銀杏の木が天守閣と同じ高さになった明治時代、熊本城は西南戦争の戦乱によって天守閣を含めて城の建物の大部分を焼失してしまいます。そして、その時にこの銀杏の木も燃えて枯れてしまいました。

その後、焼け落ちたこの木の根元から脇芽が出て育ったのがこの銀杏の木なんだそうです。

 

 

この後、天守閣に登ってみました。

この天守閣は、昭和35年に鉄筋コンクリートで再建されたもので、内部は熊本市立博物館の分館として熊本城や加藤・細川家にまつわる品々が展示・保存されています。

展示品の殆どが撮影禁止になっていたので、ここでご紹介することが出来ないのが残念です。

 

という訳で、いきなり天守閣最上階からの展望。

熊本市内が一望の下に見渡せます。

 

 

天気がいい日は阿蘇の山並みがきれいに見えるのですが、この日は大変寒く、雪雲に覆われていて見えませんでした。左手の白くなった部分は雪が降っています。

 

 

天守閣の見物も終わったので、本丸隣にある加藤神社に向かいました。

 

 

加藤清正は熊本城を築いた事で有名ですが、地元熊本では、熊本の発展の基礎を築いた名君として大変尊敬され、かつ親しまれています。

 

清正は、広い後背湿地があり、流路が複雑であるため毎年のように氾濫を繰返す、熊本平野の白川、坪井川、加勢川、緑川、菊池川の治水・灌漑工事を積極的に行って水害を防ぐとともに火山灰土壌の台地に水を引いて新しい田畑を開きました。また、湿地を干しあげたり有明海の干拓事業を行って新田を広げ、熊本を実り多き豊かな土地に変えていきました。

自貧しい不毛の地であるうえ、国人一揆が絶えなかった肥後の国に清正に先んじて封じられた秀吉の右腕、佐々成政は肥後の領主になった事に大変強い不満を持っていたそうです。そのため、秀吉の命に背き検地を断行した結果、大規模な反乱を引き起こし、結局、肥後の国を秀吉に返上したのです。

佐々成政でさえ持て余した肥後の国の領主となった清正は、それを不服とせず、貧しかった肥後の国を領民とともに豊かな土地に変え、その領民を慈しむ政治から扱いが難しかった肥後の国人達の信頼を勝ち取っていったのでした。

実際、加藤・細川両家による藩政時代の260年間、肥後国では一度も百姓一揆は起こっていません。

 

余談ですが、清正が築いた堤防は現在でも現役として使用されています。

ある年、熊本に大雨が降った際、市内を流れる加勢川の堤防が増水によって決壊しそうになったことがありました。周辺住民に避難勧告を出そうとした矢先、切れかけた堤防の下から石垣で出来た丈夫な堤防が姿を現したのだそうです。この石垣の堤防のおかげで加勢川の決壊は免れたそうなんですが、この石垣を調べてみた所、清正の時代に築かれた物である事がわかり、地元の人たちは改めて加藤清正の天才的な土木技術に感心すると同時に心から感謝したということです。

 

清正の美談はそれだけではありません。

熊本城の築城の際もそうでしたが、清正はこうした土木事業を行う際には常に現地で自ら指揮を執り、労働に従事した民百姓には必ず食事と日当を出し、親しく声をかけてまわっていたのだそうです。そのため、熊本城築城等の大土木工事が行われた際にも民百姓からは不平不満の声は聞かれず、むしろ喜んで労働に従事したということです。

自ら水呑み百姓の出だった清正は領民の心をよく理解し、上手に国造りに参加させていった訳です。

尾張の国出身であるにも拘らず、肥後の人心を捉えた清正は政治家としても素晴らしい手腕の持ち主であったようです。

 

このように熊本にとっては大恩人である加藤清正の事を、今でも、年配の方は、“せいしょこ(=清正公)さん”と親しみを込めて呼んでいます。

その加藤清正を祭ったのが、この加藤神社です。

 

 

神社の境内には、加藤清正が植えたとされる大木を祭った祠があります。

祠の後ろの二股の大木が清正手ずから植えたとされる木です。

 

 

 

この加藤神社からは、“頬当て御門”からの見慣れた姿とは違った角度から熊本城を眺める事が出来ます。

 

シリーズその2でご紹介した宇土櫓もこの角度から見ると堂々としています。

 

 

以前にも書きましたが、まめ八は、この角度から見る熊本城が一番カッコいいと思います。宇土櫓の向こうに天守閣が見えています。

 

 

天守閣のアップ写真。この角度からの天守閣の写真は珍しいと思いますよ。

 

 

さて、これまで5回シリーズで熊本城についてご案内してきました。

今回、この記事をまとめるにあたって熊本城について少しばかり勉強してみましたが、地元に住んでおきながら知らなかった事が多くて自分の勉強不足を痛感しました。

 

 

熊本城はただ単に大きなお城と言うだけでなく、築城当時の様々な歴史的な背景から、当時としては最新の技術を用いて作られた城だったことが解りました。また、日本各地にたくさん作られた城郭の中でも実戦に用いられた数少ない城であり、そして唯一篭城戦で持ちこたえた強固な城塞でもあったのです。

 

畳の床には里芋のツルを干した“ずいき”を用い、城内の建物の土壁に干瓢を塗篭めるなど篭城戦に備えて食料を確保するなど、戦闘本位の城であった熊本城は西南戦争でその威力を遺憾なく発揮します。

西郷軍は熊本城包囲戦の初期に全軍による総攻撃を行いましたがあえなく撃退され、その後は花崗山に大砲を据えて熊本城を砲撃し続けます。しかし熊本城を落とす事は出来ませんでした

戦争初期に熊本城を確保して拠点とするはずであった西郷軍の作戦はこれによって大きく狂ってしまうことになります。

結局、40日以上も包囲しながら熊本城を落城させることが出来なかった西郷隆盛は、“おいどんは、官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす・・・”と言い残して熊本から撤退していったという言い伝えが残っています。

 

 

熊本城を築き、熊本のその後の発展の礎を築いた名君加藤清正の姿は、熊本市内のあちこちで見ることが出来ます。

 

 

背の高い兜を被った加藤清正の姿は熊本の人間ならお馴染みです。

 

 

昨年末から続けてきた“加藤清正と熊本城”のシリーズも次回で一旦終わりにしたいと思います。

次回は、熊本市西部にある加藤清正の菩提寺、“本妙寺”をご紹介したいと思います。


コメント

--------これより以下のコメントは、2013年5月30日以前に-----------
あなたのブログにコメント投稿されたものです。

きなこ [2010年1月18日 0:18]
シリーズで5回にもわたって詳しく記事にされてお疲れ様でした。
しかも一つ一つ丁寧に紹介されていてすごいですね、いざ書こうとしてもいろいろと
調べることもでてきて結構大変だったのでは?
熊本城についてはその4で紹介されていた床の間と天井画が豪華で素晴らしいですね。
加藤清正公について様々なお話も興味深かったです、清正公は熊本の人々に名君として
根付いているんですね。


まめ八 [2010年1月18日 21:32]
きなこさん、こんばんわ。
3連投のコメント、有難うございます。

このシリーズ、意外とコメントが頂けなくて企画倒れだったみたいです。(;^_^A
きなこさんみたいに、最後まで読んで頂けた方がいただけでも本当にありがたく思います。
このシリーズも次回で一旦打ち切ろうと考えています。良かったら最後の記事も読んでやって下さい。!(^O^)

yut666 [2010年1月19日 23:31]
こんばんわ。
熊本城の天守閣、初めて見ました。
立派なお城ですね。
熊本のシンボルというところでしょうか。
加藤清正は、熊本の英雄なのですね。
これも知りませんでした。
まめ八さんのブログは勉強になります。
まめ八 [2010年1月20日 19:39]
yut666さん、こんばんわ。
3連投のコメント、有難うございます。

加藤清正は、熊本の人間にとっては恩人&英雄ですね。
ですから、5月の節句の時には、鯉のぼりの横に立てる矢旗には加藤清正の虎退治の絵が描かれていることが多いんですよ。
ご紹介した加藤神社では、加藤清正をNHK大河ドラマで取り扱ってもらおう!という署名運動が行われていました。(国際問題になるので多分駄目でしょうけど・・・)(-。-;)

>熊本のシンボルというところでしょうか。

全くその通りですね。
西南戦争で熊本城が焼け落ちる姿を見て、人々は“清正公さんのお城が燃えとる・・・”といって涙したそうです。(細川さんでない所が笑えます)
ですから、ゴジラやラドン、阿蘇火山から飛んできた火山弾(日本沈没)からも真っ先に壊されてしまうのです。o(^▽^)o


にーなな [2010年1月30日 16:11]
こんにちは。
熊本城の天守閣。。私も初めて見ました。
加藤清正公。。熊本のヒーローなのですね。
素晴らしいです。
銀杏の木のエピソードは興味深いですね。
詳しい解説でとても勉強になりました。
まめ八 [2010年1月31日 22:27]
にーななさん、こんばんわ。
全ての記事にコメントを頂きまして、いたみいります。m(._.)m

加藤清正は熊本の歴史をある程度知って人間ならば、足を向けて寝ることが出来ない人物です。
貧しかった熊本の地を今日のように豊かな農業地帯に変えることが出来る可能性を示してくyれた人物ですから。。。
今、熊本では加藤清正をNHK大河ドラマで取り扱ってもらおうという運動が起こっていますが、韓国が強硬に反対するでしょうから無理でしょうね。
子にシリーズ、あと一つ記事にしようか考えているのですが、この所忙しくてなかなか記事に出来ません。
その最終回の記事で何故韓国がNHK大河ドラマ化に反対するのかの事情も説明したいと思っています。
おぺ [2010年2月7日 22:56]
こんばんは、おぺです。
シリーズ熊本城、この回だけでもすごいボリュームですねw。宇土櫓、芸術といえるほどのたたずまいです。
やはり熊本で殿様といえば清正公なんですね。縁のある尾張の人間としてはとても嬉しいです。百姓出身でありながら技術、文化、政治力に類をみない才能を発揮したスーパーマンですからね。
清正公のお馴染みの兜、去年末に徳川美術館で見ました。これが本物と思うと異常に興奮しましたよw。いつかコチラの清正公ゆかりの地も紹介したいと思います。
まめ八 [2010年2月8日 19:20]
おぺさん、こんばんわ。
感激の5連投、有難うございます。

加藤清正は朝鮮出兵が無ければ、NHK大河ドラマに取り上げられても不思議でない戦国末期のスーパーヒーローだと思います。
このシリーズもあと一回で完結させるつもりなのですが、菩提寺である本妙寺への取材になかなか行く暇がありません。
尾張出身の清正公ですが、熊本の人間と馬が合ったのでしょうね。o(^▽^)o
そういえば、保守的で、派手好き、勤勉、新しい物が好きな所など、愛知と熊本は県民気質が似ているところがありますね。o(^▽^)o


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