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西住戦車長之像を訪ねて・・・

2010-11-01 22:33:06 | 熊本の歴史遺構を訪ねて

過去記事でもご紹介した甲佐町にある“麻生原のキンモクセイ”(10月16日に掲載)を訪れた時の事です。

キンモクセイの樹下にある観音堂に、地元の人が作ったと思われる“麻生原のキンモクセイ”について書かれた簡単なパンフレットが置いてありました。ブログの記事を書く際に役に立ちそうだったので一枚貰って帰ったのですが、その中にまめ八を驚かせるような事が書かれてあったのです。

 

甲佐町にある、その他の観光名所・・・“西住戦車長の墓”

 

えぇ~っ!あの軍神と言われた西住戦車長は熊本県甲佐町の出身だったのか!

ここで“軍神”という言葉を簡単に説明しておくと、戦前の日本において、戦闘中に目覚しい軍功を挙げただけでなく、人柄や行いも立派だった軍人で戦死された方だけが軍神として崇められたのです。

西住戦車長以前は、日露戦争で旅順港の閉塞作戦を指揮して戦死された広瀬武夫中佐、同じく日露戦争の遼陽会戦で戦死された橘周太中佐、第一次上海事変の際の肉弾三勇士(江下武二伍長、北川丞一伍長、作江伊之助伍長)

が軍神と崇められていましたが、軍によって公式に軍神と認められたのは、この西住戦車長が初めてなのです。

 

奇しくも戦車模型の雑誌であるAM誌で、西住戦車長が乗車していた八九式戦車のマガジンキットが発売されており、戦車模型界では旧軍戦車ブーム。。。

これは戦車模型を作る人間として、そして地元の人間として西住戦車長のお墓に参拝しない訳には行かないでしょう。

そこで甲佐町のHPやその他、郷土研究家のサイトなどを検索してみたところ、どうやらお墓ではなく西住戦車長の銅像があって祀られている事が解りました。

ところが、どのサイトでも“西住戦車長之像”の事は極簡単にしか紹介されておらず、所在地を示すような地図はおろか、場所が特定できるような記述な何一つありませんでした。

ただ、甲佐町のHPに“仁田子”という集落にある事が書いてあったので、摂り合えず出かけてみる事にしました。

まず、甲佐町役場の図書館に行き、郷土史や史跡関係の資料を調べてみましたがこれは収穫なし。。。

そこでゼンリンの住宅地図を頼りに“仁田子”集落を探し出し、その近くまで行ってみて、あとはその辺を歩いているお年寄りにでも聞いてみようという行き当たりバッタリな計画を立てて役場を出ました。

 

国道443号線を熊本市方面から砥用方面に走ると、甲佐町役場前の信号機付きの交差点(角にセブンイレブンがあるのですぐに解ります)を右折します。

暫く走ると集落が途切れて田園風景が広がり始めました。

生憎、小雨模様だったために道を歩いている人もいません。

 

“こりゃちょっと計画がずさんすぎたかな?”

 

・・・と思った刹那、進行方向右手の田んぼの真ん中に日の丸が掲げられた墓地が見えました。

 

“これはひょっとして。。。”

 

ソニカのハンドルを右に切り、墓地に向かう田んぼの中の小道を暫く走ると墓地の傍らに小さな公園がありました。立て札を見ると“西住公園”と書かれてあります。ここが西住戦車長之像の場所でした。奥には甲佐町のHPにあった西住戦車長の胸像が見えています。

やっと見つける事が出来ました。

 

 

入り口左には西住戦車長の戦友等、旧軍関係の方々が記念樹を植えられていました。文字通り生死を共にした戦友の絆の強さを感じます。

 

 

これが“西住戦車長之像”です。

写真を含めて、私自身、西住戦車長の顔を拝見するのは初めてです。

 

 

さて、この西住戦車長について簡単にご紹介しましょう。

 

西住戦車長こと、西住小次郎氏は、日本の戦車部隊がまだ黎明期だった日華事変において活躍された戦車指揮官です。

旧日本軍の戦車は、同時期の欧米諸国の戦車に比べるとかなり性能が劣っていたため、サイパンの五島戦車隊や、硫黄島のバロン西こと西竹一大佐など悲惨な話ばかりが目立ち、活躍した戦車兵といえば第二次世界大戦初頭のマレー作戦における島田豊作大佐と、この西住小次郎中尉位しか耳にすることがありません。

特に西住中尉は、日華事変当時、従軍記者であった菊池寛による小説『西住戦車長伝』が、東京日日新聞と大阪毎日新聞に連載されると好評を博し、昭和15年には松竹により映画化(『西住戦車長伝』)されています。その映画では西住中尉役を、当時二枚目俳優として有名だった上原謙(加山雄三さんのお父上です)が演じていました。

【参考URL:http://www.nwn.jp/screen/waga1/text1/72.html

 

さて、西住中尉は、熊本県甲佐町仁田子に生まれ、昭和9年6月に陸軍士官学校を卒業し、宇都宮の歩兵第59連隊附となり、同年10月には少尉に任官して満州事変に出征しています。

戦地から戻った氏は、昭和11年1月から戦車操縦の訓練を受け、同年8月から久留米の戦車第一連隊附に転任して中尉に昇官しました。

その際、西住中尉が搭乗した戦車が初の国産戦車である八九式戦車でした。

昭和12年7月に日華事変が勃発すると、西住中尉の戦車第一連隊は上海派遣軍に編入され、9月上旬に中国の呉淞に上陸、宝山城、月甫鎮、羅店鎮、大場鎮などを歴戦して蘇州河に進出、その後反転して南翔を占領した後、南京攻略戦に参加します。

南京攻略戦終了後、徐州作戦に参加。その作戦中の昭和13年5月17日、宿県南方の黄大庄付近に於いて、戦車の進路前方にクリークを発見し、戦車の渡渉可能な場所を探しに戦車から降りて単身偵察を行い、中隊長に報告に赴こうとした直後に流れ弾によって右大腿部を負傷されました。すぐに部下の兵士たちによって後送されましたが、その戦車の中で出血多量により戦死されたということです。

 

戦車指揮官としての西住中尉は、部下思いの情に厚い人物だったようで、行方不明になった部下を心配して夜間、暗闇の竹林の中を探し歩いたとか、食料が乏しくなってくると自分の食事を部下に与え、自らは乾パンで済ませていたとか、病気になった部下のために将校用の壕を寝所として与え、自らは兵と同じ戦車の下で休んだとか、様々なエピソードが語られています。(これらのエピソードは、当時の将校と兵の関係から考えると驚くべき行為なのです)

また、中国に上陸してから戦死するまでの間に30回以上の戦闘に参加、その中には敵前数十メートルで行われた9時間にも及ぶ戦闘や、上海での激しい市街戦も含まれています。西住中尉の戦死後、日本国内で展示された彼の戦車には1300発以上の被弾痕が残されていたそうです。

 

 

敵弾を受け、出血多量のために意識朦朧となりながらも、部下達にクリークの渡渉可能地点を伝達、中隊長への報告を命じて絶命されたそうです。

 

 

享年25歳。

この時代の25歳って凄かったのですね。

私は既に40代半ば過ぎですが、絶対に真似は出来ません。

 

25歳という、余りにも若すぎる年齢でこの世を去った西住中尉。

一時は軍神と崇められ、日本人で知らない人がいない位にもてはやされた英雄の像も、今は知る人も殆どなくひっそりと静かに佇んでいました。

ただ、そのような世の移ろいに関係なく、故郷の甲佐町仁田子ののどかな田園の中で訪れる人も少ない“西住中尉之像”を見ていると、戦争の時代を生きた西住中尉が平和な日本を見守ってくれているかのように思えました。

 

 

『西住戦車長之像』の台座裏にある解説です。

この記事を書く参考にしました。

 

 

最後に、西住小次郎中尉のご冥福と、これからも平和な世の中が続くように努力する事を誓いながら、胸像に向かってそっと手を合わせてこの場を去りました。


コメント

--------これより以下のコメントは、2013年5月30日以前に-----------
あなたのブログにコメント投稿されたものです。

デコちゃん [2010年11月2日 9:32]
こんにちは!
普段戦車にも軍神にもまったく興味を持っていない私ですが、ブログ、非常に興味深く拝読させてもらいました。
25歳というと、今のご時勢だったら、まだまだ学生気分が抜けきらないチャラチャラした人が多いように思いますが、この西住戦車長は、軍師としてだけでなく人柄も素晴らしい人だったんですね!ちょっと感動しました!!
まめ八さんがおっしゃられるように、この像からは、西住戦車長が軍神として末永く崇められるよりも、むしろ忘れられるくらいに日本が平和であることを願っているように思えてきます^^
今の日本が豊かで平和であることに感謝です。
まめ八 [2010年11月2日 20:46]
デコちゃんさん、こんばんわ。
いつもコメントを頂きまして有難うございます。

いやぁ~。この記事にデコちゃんさんからコメントを頂けるとは思ってもいなかったので感激しております。o(^▽^)o

そうですね。。。昔の方々は自立心が旺盛というか、成人としての自覚を持っているというか、20歳代でもしっかりされている方が多かったみたいですね。
鹿児島にある知覧の特攻記念館で、特攻に赴かれた10代後半から20代にかけての特攻隊員の遺書を拝見した時もそう思いました。
私なりに考えると、当時の人たちは、自分に対する“誇り”というか“信念”みたいなものを持っていたからではないでしょうか。また、それに背くような行為に対しては自ら恥じるという自己規制が働いていたのだと思います。
外国に見られるような宗教というタブーを持たない日本人は、この“恥の文化”がその代わりを果していたのですが、高度成長期からバブル期にかけての拝金主義がそれを失わせてしまったと言われています。(T△T)
平和で豊かになった反面、“恥の文化”を忘れてしまった日本人を、西住中尉はどんな思いで見ているのでしょうね。。。
EP82-SW20 [2010年11月2日 22:34]
こんばんは。
25歳というと、今の25歳では「若造」と一言で片付けられてしまう程度の若者が多いと思います。
この西住中尉に限らずですが、当時の将校クラスの兵士達が家族に送った手紙を見ると、今の40代の人でもそれなりの教養がないと書けないであろう文面を目の当たりにしますね。
生きる事・家族を守る事・社会に貢献する事・国を愛する事等、オヤジ世代になっている私も年齢こそ上ですが、格下ですよ(^^;)
国会議員の先生方の中にも「愚か」と揶揄される人がいるくらいなので、国からしてだらけてしまっているのかもしれませんが・・・
ヴィットマンやカリウスだけでなく、日本にも西住中尉の様な戦車兵がいたとは、今回初めて知りました。
宮ちゃんNO1 [2010年11月2日 22:49]
こんばんは 宮ちゃんで~す!

スミマセン・・教養が無いんで(笑)
西住中尉の事は知りませんでした~
でも・・まめ八さんのコメントで勉強に成りました~
ホント・・25歳でこれだけ名声を残せるなんて
自分と比較に成らないのは言うまでも有りませんが
偉人伝を聞くとやはり感銘しきりになります(涙)
おぺ [2010年11月2日 23:05]
こんばんは。興味深く読ませていただきました。
軍人として人格者としての西住大尉に畏敬の念を抱かずにいられませんが、その反面「軍神」という言葉にはなんともいえない複雑な気持ちになります。神話や中世のような抽象的な逸話ならまだしも、近代においてはリアリティがありすぎるし、その後の認定や神格化の意味の意図的な使われ方が…。


まめ八 [2010年11月3日 10:32]
EP82-SW20さん、おはようございます。
4連続コメ、有難うございます。

戦時中の若者は常に死というものを意識せざるを得ない状況下にありましたから常日頃から時間を無駄に過ごすことが出来なかったのでしょうね。それだからこそ、当時の劣悪な環境でも勉強し、本を読み、文を練ったのでしょう。文章は“その人の人となりを表す”といいますが、当時の若者の文章を読むと、文語調で書かれた素晴らしい物が多いですよね。
ところで、大戦当時の日本の戦車兵が極めて優秀であったことは余り知られていません。陸軍には戦車幼年学校(現在の陸上自衛隊の富士教導団です)という専科の学校があり、優秀な若者を選抜して戦車のスペシャリストの養成にあたっていました。従って日本の戦車兵は操縦、射撃、整備などに精通した世界でもトップクラスの極めて高い技量をもっていたのです。(作家の司馬遼太郎さんも戦車兵でしたね)貧乏国家だった当時の日本では、戦車といえば戦闘機や爆撃機と変らない高価な最新兵器であったので、それを扱う兵士の訓練に力を入れたのは当然でした。
まめ八 [2010年11月3日 10:33]
EP82-SW20さん長文のリコメ、すみません。続きです。。。

ところが、肝心の戦車の方が文字通りの“ブリキの棺桶”だったので、みすみすこの世界でもトップレヴェルの技量を持った戦車兵を犬死させる事になってしまったのです。
また、陸軍部内の歩兵科と機甲科との権力争いにより、本来は独立した兵科であるべきの機甲科が歩兵科の下に置かれ、そのため戦車は歩兵の支援兵器という間違った用兵思想が主流になってしまったのもこうした悲劇の大きな理由だといわれています。
当時の日本の戦車兵の高い技量を示すエピソードとしては、47㎜戦車砲でM4シャーマンのバイザーを狙って撃破したとか、無線が通じない状況下でも3輌一組のフォーメーションを組み、集中射撃によって敵戦車を撃破したとか、更には日本軍が捕獲使用したM3スチュアートやM4シャーマンが元の持ち主である連合国軍を散々苦しめた、というものがあります。
いずれにしても、訓練が行き届いた優秀な兵を、質の悪い兵器よりも低く扱い、軍内部での権力争いの結果、活躍の場さえ与えなかった旧軍の失態は現在の日本の企業や官僚組織にもあい通じるものがあるような気がしてなりません。
まめ八 [2010年11月3日 10:43]
宮ちゃん、おはようございます。
いつもコメントを頂きまして有難うございます。

そうですね。25歳でこれだけ自分の立場を理解し、死の間際までその責務をまっとう出来る人間は余りいませんね。
ただ、デコちゃんさんも書かれていますが、西住中尉の事を知らない人が多い、ということはそれだけ今の日本が平和な国であることの証明だと思います。多分、西住中尉自身も自分が軍神として崇められる世の中よりも、世界で最も豊かな生活を楽しむことが出来て、平和な時代が続く今の日本の姿を望んでいたのではないでしょうか?
まめ八 [2010年11月3日 11:16]
おぺさん、おはようございます。
連続コメント、有難うございます。
私もこの記事を書くにあたっておぺさんと同じ感慨を持ちました。そのため、当初はタイトルにも碑文そのままに軍神という言葉を入れていたのですが、後に意図的に外してしまいました。
ただ、西住中尉自身は軍神になる事を意図してその職責を全うしたのではないでしょうし、彼が軍神として利用されるのは彼の死後のことですから、これは西住中尉の責任ではないと思うのです。また西住中尉が普通の人物であるならば彼を軍神として利用する動きさえ起こらなかったでしょうから、西住中尉の人柄と職務に対する責任感を評価する言葉の一つとして、当時から使われてきた軍神という言葉も有りなのかな?と私は思います。(もっとも、おぺさんの言われる通り、軍神という言葉自体には様々な意図が含まれているので安易に使ってはいけないとは思うのですが。。。)
まめ八 [2010年11月3日 11:22]
おぺさん、長文リコメになり申しわけございません。続きです。。。

私は軍神という言葉自体よりも、西住中尉を軍神に祀り上げることによって日本を戦争へと導き、破滅の淵に追い込んだ人たちには憤りを感じます。当の西住中尉自身、国民に塗炭の苦しみを強いた上に、国土を焼け野原にし、将来有望な青年を死地に追いやった先の大戦を望んではいなかったでしょう。(彼は軍人ですから、それでも従容と職務を全うしたでしょうが。。。)
弱冠25歳の、将来ある身でありながら無念の戦死を遂げられた西住中尉を最も冒涜しているのは、そうした連中だったと私は思います。
にーなな [2010年12月4日 13:20]
こんにちは。
歴史的なことは私は詳しくはありませんが、興味深く読ませていただきました。
西住中尉のことは初めて知りました。
”御国のため”に若くして戦死された事実はなんとも複雑なものがこみ上げてきます。
国家のために軍人としての任務を遂行しながらも、しっかりと自分を見つめて考えて行動されていたところに感銘を受けます。
いつまでも平和な日本であることを祈ってやみません。
まめ八 [2010年12月4日 22:58]
にーななさん、こんばんわ。
続けてのコメント、有難うございます。

正直申し上げて、私自身、今回の調査は軽い気持ちで始めたものだったのですが、実際にこの地に赴き、西住中尉の事を調べるにつれて、中尉の人と為り、そして悲惨な運命を感じずにはおられませんでした。今の時代にはまずいない日本人でしょう。。。
ただ、西住中尉が、もしこの時に戦死されていなければ、戦後日本の発展に大きな業績を残したかも知れませんね。
今戦争が始まっても私の年齢ならば出征しなくてもいいかもしれません。
けれども戦争は人類最大の汚点であることにはかわりありません。



みー。 [2012年1月10日 23:33]
熊本出身の旧姓が西住です。旧姓の頃、高齢の方からは親戚か?と聞かれておりました。父もわからないそうです。一度手をあわせに行こうと思います。
まめ八 [2012年1月12日 9:25]
みーさん、こんにちわ。
初めまして!
この度はコメントを頂き、有難うございます。

文献によると、西住戦車長のご実家は甲佐町の仁田子の旧家(武家)だったそうです。この地区には西住姓が多いそうで、恐らく祖先を辿れば同じ一族であった可能性は高いと思われます。
奇しくも旧姓が同じという事も何かのご縁だと思います。
一度、訪れられてみて下さい。
時代とともに世の価値観が変わり、今では訪れる人も殆どない西住戦車長の碑ですが、その時代の正義を信じ、国のために若き命を奉げた立派な人物であった事実だけは揺るがない真実だと思います。そうした先人を偲び、手を合わせるだけでも、私は大変意義深い事だと思います。


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