4月1日の中日新聞に、高橋源一郎氏が「現代語訳」した教育勅語のことを取り上げていました。
見た途端、「なんじゃこりゃ!?」でした。
見出しは、「右の人も左の人も、一度見てみて」と、中立の立場を大切にするようなもの
最近ちょっと左寄りだという話をよく聞く中日新聞でしたので、中立な立場というのはよいことだ、と思って読み始めたのです。
しかし
はっきり言います。久しぶりに、吐き気を催すほどの激しい怒りに震えました。
こんな悪意、めったに見ません。
中立の立場で報じているポーズを取りながら、その内容の抽出の仕方は、「おれ、天皇は偉いんだよ、ずっと完全無欠のすげえ血筋、あんたたちとは違うんだよ。だから、ピンチになったら、僕のために命を投げ出して戦ってよね。じゃ、そういうことで」
です。
そういうものの言い方をすれば、反感を持つことを計算の上でその言葉遣いを引用し、「右派も左派も一度読んでみて」と、偽りの客観性を促そうとする
ひどいですよ、中日新聞のレイアウト、構成。
しかし、改めて見ると、その情報源、高橋源一郎氏の文、本人曰く現代語訳が、これをはるかに超える悪意に満ちた情報印象操作であり、
もし現代に「不敬罪」というものが存在するのならば、間違いなくそれに該当するものでありました。
これがいかに失礼な行為であるのかを論ずるには、文字数、理論に長いスペースを必要とするため、読者は読もうとしないでしょう。
また、私ごときが論じようとすれば、必ず論に穴があき、右翼のレッテルを貼って排除されるのが落ちです。
すべては高橋氏の計算。だからこそ許せない、激しい怒りというのはそういうことです。
思った通り、ちょっとネットをのぞくだけで、「そんな意味だったのか」「わかりやすい、天皇最低だな」「こんなのに洗脳されて云々」
簡単に術中にはまって印象操作はどんどん進んでいるようです
そして、これも思った通り、高橋氏を批判する人は、思いっきり長い、読みにくい文章で天皇陛下がいかに素晴らしいものであるかということを、髙橋氏の訳の細かいところばかりついて延々と語っている
もう、ちょっと、アレな自己陶酔ばかり
いい加減にしていただきたい
私は3月の投稿で、
「教育勅語 悪くないけど、現状では唱えさせるべきものではないと私は感じています。
私が育った時代、社会の教科書には、日本国憲法、大日本帝国憲法の両方が社会の教科書や資料集に載っていました。両方を比べ、それぞれの時代の考え方を知りましょう、ということで、よい資料だったと思います。
大日本帝国憲法にも、その時目指すべき国の指針が示されていました。その当時、悪意などなかったのです。
教育勅語も、そういう扱いで教材化するのならば、問題はないと思います。ただし最低限その程度の教養がある教師が扱わなければなりませんけどね。」
と書きました。
1.天皇、皇族のあり方は、北朝鮮の金総書記のようなものと同じかどうか、確認すること
悪意ある人は、天皇の口調を「タメ口」にすることで、品位も教養もない人が虚勢を張って大衆を力で押さえつけようとしている人格に見えるように印象操作します。
そういう人格の方ですか?過去の天皇はどうでしたか?
それは皆さん、実際に映像などで見れば明らかすぎることだと思うのですが。
実際、天皇が権力をもって民を押さえつけようとした歴史は、驚くべきことにほとんどありません。
明治から戦時中にかけての政府は、確かに天皇を「権力という意味での神様」にして、政策に利用したことは間違いありませんけどね。
権威ではあっても、権力ではなかったのです。ここは難しいので、今回は割愛します。極めて大事なところではあるのですが…
2.明治初期という時代背景を考慮しなければならない
時代の実情を察すれば、徳川幕府に代わる絶対権力者が必要だった。ここも理解されにくいところではありますが、自由民権運動の通りに完全な「民主」を行うには、あまりにも政治基盤が成熟していなかったと判断されます。
将軍様、大名、藩主様が絶対で、それに従っていれば生きて行けた時代だったのですから。
そこに担ぎ上げられた明治天皇もまだ若かった。いわゆる「葵の御紋の印籠」が必要だったし、「国体維持」は、西洋列強にさらされる中、国民的な課題でもあった時代です。
その中で、どのような教養を持った国民が必要とされるのかを説かなければならなかったことは、ごく自然だったのです。
3.「教育勅語」の内容はよい、と言っている人の言い分を少しだけ擁護するとすれば…
これは、「十七条の憲法」「会津藩じゅうのおきて」と同じように、短く簡潔にまとめたところにポイントがあります。
例の、「いざというときは臣民のみなさんは身を挺して…」のところを除いては、教育勅語で言っていることは、まあ、普通によりよく生きるための心がけのようなことが並んでいるわけです。
現代では、道徳などによって、それらの内容はすべて網羅されているので、教育勅語をもう一度引き出して児童生徒に教授する必要は全くありません。
ただ、現代の道徳は、短くリズミカルに、その生きる価値観を説く文章ではありませんので、合言葉として記憶させることはできません。(もちろんそれは道徳の意図するところではありませんし)
そういう意味では、生きる指針を簡潔にまとめたものとして、価値はあったとは思います。
大日本帝国憲法と同じく、当時の教育の考え方はどうであったか、ということを知る貴重な資料として、
また、悪用と言ってもよいほどの使われ方をして無謀な戦争に国民を向かわせた道具の一つとしても
読んで知っておく価値のあるものではあると思いますが、やはり諳んじさせて現代の小さな子に与えるものではないと思います。論語でさえ、今は教育の場では使われていないのですから。
4.あれは、「いざ鎌倉」ですよ
教育勅語で問題になっている部分で言おうとしていることは、まさに「いざ鎌倉」であり、600年以上にわたって日本人が当たり前にやってきたことです。
現在の価値観で批判することは簡単です。また過去を美化する気もありません。ただ、「天皇は最低だ 威張って国民に自由を与えず、自分のためならば命も投げ出させていたのか」は、ひどく的外れであること
私の世代ならば結構自然に理解できることだと思うのですが、今後の世代ではわかりません。
だから、教養のある教師が取り扱わなければならない、と言っているのです。
当時としては自然な形で生まれたもので、もともと悪意のあるものではなかったことを、私たちは理解しなければいけないのです。
見た途端、「なんじゃこりゃ!?」でした。
見出しは、「右の人も左の人も、一度見てみて」と、中立の立場を大切にするようなもの
最近ちょっと左寄りだという話をよく聞く中日新聞でしたので、中立な立場というのはよいことだ、と思って読み始めたのです。
しかし
はっきり言います。久しぶりに、吐き気を催すほどの激しい怒りに震えました。
こんな悪意、めったに見ません。
中立の立場で報じているポーズを取りながら、その内容の抽出の仕方は、「おれ、天皇は偉いんだよ、ずっと完全無欠のすげえ血筋、あんたたちとは違うんだよ。だから、ピンチになったら、僕のために命を投げ出して戦ってよね。じゃ、そういうことで」
です。
そういうものの言い方をすれば、反感を持つことを計算の上でその言葉遣いを引用し、「右派も左派も一度読んでみて」と、偽りの客観性を促そうとする
ひどいですよ、中日新聞のレイアウト、構成。
しかし、改めて見ると、その情報源、高橋源一郎氏の文、本人曰く現代語訳が、これをはるかに超える悪意に満ちた情報印象操作であり、
もし現代に「不敬罪」というものが存在するのならば、間違いなくそれに該当するものでありました。
これがいかに失礼な行為であるのかを論ずるには、文字数、理論に長いスペースを必要とするため、読者は読もうとしないでしょう。
また、私ごときが論じようとすれば、必ず論に穴があき、右翼のレッテルを貼って排除されるのが落ちです。
すべては高橋氏の計算。だからこそ許せない、激しい怒りというのはそういうことです。
思った通り、ちょっとネットをのぞくだけで、「そんな意味だったのか」「わかりやすい、天皇最低だな」「こんなのに洗脳されて云々」
簡単に術中にはまって印象操作はどんどん進んでいるようです
そして、これも思った通り、高橋氏を批判する人は、思いっきり長い、読みにくい文章で天皇陛下がいかに素晴らしいものであるかということを、髙橋氏の訳の細かいところばかりついて延々と語っている
もう、ちょっと、アレな自己陶酔ばかり
いい加減にしていただきたい
私は3月の投稿で、
「教育勅語 悪くないけど、現状では唱えさせるべきものではないと私は感じています。
私が育った時代、社会の教科書には、日本国憲法、大日本帝国憲法の両方が社会の教科書や資料集に載っていました。両方を比べ、それぞれの時代の考え方を知りましょう、ということで、よい資料だったと思います。
大日本帝国憲法にも、その時目指すべき国の指針が示されていました。その当時、悪意などなかったのです。
教育勅語も、そういう扱いで教材化するのならば、問題はないと思います。ただし最低限その程度の教養がある教師が扱わなければなりませんけどね。」
と書きました。
1.天皇、皇族のあり方は、北朝鮮の金総書記のようなものと同じかどうか、確認すること
悪意ある人は、天皇の口調を「タメ口」にすることで、品位も教養もない人が虚勢を張って大衆を力で押さえつけようとしている人格に見えるように印象操作します。
そういう人格の方ですか?過去の天皇はどうでしたか?
それは皆さん、実際に映像などで見れば明らかすぎることだと思うのですが。
実際、天皇が権力をもって民を押さえつけようとした歴史は、驚くべきことにほとんどありません。
明治から戦時中にかけての政府は、確かに天皇を「権力という意味での神様」にして、政策に利用したことは間違いありませんけどね。
権威ではあっても、権力ではなかったのです。ここは難しいので、今回は割愛します。極めて大事なところではあるのですが…
2.明治初期という時代背景を考慮しなければならない
時代の実情を察すれば、徳川幕府に代わる絶対権力者が必要だった。ここも理解されにくいところではありますが、自由民権運動の通りに完全な「民主」を行うには、あまりにも政治基盤が成熟していなかったと判断されます。
将軍様、大名、藩主様が絶対で、それに従っていれば生きて行けた時代だったのですから。
そこに担ぎ上げられた明治天皇もまだ若かった。いわゆる「葵の御紋の印籠」が必要だったし、「国体維持」は、西洋列強にさらされる中、国民的な課題でもあった時代です。
その中で、どのような教養を持った国民が必要とされるのかを説かなければならなかったことは、ごく自然だったのです。
3.「教育勅語」の内容はよい、と言っている人の言い分を少しだけ擁護するとすれば…
これは、「十七条の憲法」「会津藩じゅうのおきて」と同じように、短く簡潔にまとめたところにポイントがあります。
例の、「いざというときは臣民のみなさんは身を挺して…」のところを除いては、教育勅語で言っていることは、まあ、普通によりよく生きるための心がけのようなことが並んでいるわけです。
現代では、道徳などによって、それらの内容はすべて網羅されているので、教育勅語をもう一度引き出して児童生徒に教授する必要は全くありません。
ただ、現代の道徳は、短くリズミカルに、その生きる価値観を説く文章ではありませんので、合言葉として記憶させることはできません。(もちろんそれは道徳の意図するところではありませんし)
そういう意味では、生きる指針を簡潔にまとめたものとして、価値はあったとは思います。
大日本帝国憲法と同じく、当時の教育の考え方はどうであったか、ということを知る貴重な資料として、
また、悪用と言ってもよいほどの使われ方をして無謀な戦争に国民を向かわせた道具の一つとしても
読んで知っておく価値のあるものではあると思いますが、やはり諳んじさせて現代の小さな子に与えるものではないと思います。論語でさえ、今は教育の場では使われていないのですから。
4.あれは、「いざ鎌倉」ですよ
教育勅語で問題になっている部分で言おうとしていることは、まさに「いざ鎌倉」であり、600年以上にわたって日本人が当たり前にやってきたことです。
現在の価値観で批判することは簡単です。また過去を美化する気もありません。ただ、「天皇は最低だ 威張って国民に自由を与えず、自分のためならば命も投げ出させていたのか」は、ひどく的外れであること
私の世代ならば結構自然に理解できることだと思うのですが、今後の世代ではわかりません。
だから、教養のある教師が取り扱わなければならない、と言っているのです。
当時としては自然な形で生まれたもので、もともと悪意のあるものではなかったことを、私たちは理解しなければいけないのです。
だから見ていません。
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