今回、本題へのプロローグが馬鹿みたいに長いのでご容赦ください。
私の世代は、週刊少年チャンピオンの全盛期体験者です。以前記事にした「青い空を 白い雲がかけてった」の時代。
「ドカベン」「ブラックジャック」「がきデカ」「マカロニほうれん荘」「レース鳩0777」「750ライダー」…枚挙にいとまがない…
素晴らしい時代だと思っている一方で、「マカロニ」で代表されるように、伝説の編集長壁村さんについては、素直に肯定できないものを感じます。
その中に、望月あきら先生の「ゆうひが丘の総理大臣」という漫画があり、これも大好きでした。
ある号で、この漫画がドラマ化されるというお知らせがありました。私は狂喜しました。
キャストも、中村雅俊さん、神田正輝さん、京塚昌子さん、由美かおるさん、宍戸錠さんなど、そうそうたるメンバーと知らされ、中学生だった私は胸震わせてドラマを見始めたことを覚えています。
ドラマが始まって、私は、唖然、茫然としてしまいました。
キャストの役職、大岩先生(中村雅俊さん)が「ソーリ」と呼ばれるようになったこと…
以外は、ほとんどすべてが、原作とかけ離れていたからでした。原作は中学校、ドラマは高校。部活も、あんなんだったっけ?生徒のバカ騒ぎも、こんな感じではなかったはず…
数回見て、すぐに私は悟りました。「これは、ゆうひが丘の総理大臣という漫画の登場人物、人間関係、シチュエーションを借りた、まったく原作とは違う学園ドラマを描いているのだ」と。
出演者の皆様を非難する気など毛頭ありませんし、すばらしい俳優さんたちの熱演だったことは間違いないです。なんだかんだで私も結構な回数、このドラマをそれなりに楽しんで見ました。
でも、ずっとずうとその時から、私の心の中には変なくすぶりが残り続けるのでした。
これ、自分が好きな、あの漫画の「ゆうひが丘の総理大臣」ではない。
別にこういうドラマ作りたいなら、「ゆうひが丘」の舞台借りる必要ないじゃん。「我ら青春!」「俺は男だ!」とどこが違うんだよ?
なんだか、原作がどこかで小ばかにされているような気がして、くすぶっていたのだと思います。
制作は、日本テレビでした。
あれからもう45年以上の歳月がたったのですね。そんな時、「セクシー田中さん」の原作者が亡くなられたという、悲痛なニュースが届きました。
これに関して、多くの記事が出ましたし、多くのコメント、見解、報告を見ました。そして分かったことがいくつかあります。
最も感じたことは、「テレビ制作サイドの考え方は、ある意味正しいが、やはりそれはあくまで、テレビのプロの思考枠内だけの発想力」です。そのプロ意識だけで物事を判断してはいけないということを、想像したり考えたりする能力が決定的に欠けている、そこに今回の悲劇の根本があったと思えるのです。
①脚本家の方々、テレビ局側の主張はある意味正しい
「餅は餅屋」ということです。事件直後、脚本家連盟のような方々がSNSでお気持ちを表明されたそうで、それらには多分に「セクシー田中さん」脚本の方への擁護と受け止められるコメントが多かったらしく、世間から大バッシングを受けていました。ですが私は、ある意味この、叩かれた主張は正しいと思うのです。
漫画には、漫画でしか出せない演出や描き方があります。これをそのままテレビドラマで再現して、テレビで見ている人たちが漫画を読んでいるような感動に至るかというと、そうなるとは言い切れません。逆もまたしかりです。
実写ドラマでしか出せない展開や演出もあり、それを漫画で表現して同じような感動を呼べるかというと、答えは「否」です。
それぞれに得意分野、プロ意識が発揮できるところがあり、それを別の土俵でやって必ずしもうまくいくとは限りません。
今回は原作者さんが「原作通りの形でドラマにしてくれ」と頼んでいたとのことですが、本当に原作通りに放送して、視聴率の稼げるドラマにできたかどうか、というと、若干の疑問は残ります。
テレビ制作サイドや脚本家たちは、そういうことが十分わかっていて、おそらくは、「原作通りの形で」の要望を片耳に挟みながらも、とにかく視聴率が取れる形を考え、脚本を作っていったのではないかと思われます。
②その前に、最初に決まるものは何か?キャストです
テレビのドラマ制作って、中身云々の前に、「誰がキャストなのか」が非常に重要視されます。視聴率の取れるキャスティングこそ「命」ですから、
だいたいのドラマのコンセプトが決まったところで、「何はともあれキャストを押さえないと」と、俳優たちのスケジュールをゲットすることが最優先されているはずです。そういえば「セクシー田中さん」では、キャスティングされた女優さんが、撮影のだいぶ前からベリーダンスのレッスンに通い詰めたと聞きます。それぐらい前倒しで準備しないと、撮影に対応できないですからね。メディアミックスも大事ですし。
ごく大雑把に言うと、決まるのは、コンセプト→キャスト→脚本の順なのでしょう。当然脚本家には、その俳優が持つ魅力を十分に発揮できるような脚本作りが要求されてきて、そこに脚本家の力量が問われるのでしょう。
③テレビの事情も知らない原作者は、制作側にとってどんな存在か
ここまで述べれば自明だと思うのですが、脚本家含めたテレビスタッフにとって、原作者って、一番大切な人でありながら一番厄介な人になる可能性があるわけですよね。
全てが「テレビ脳」で動いているスタッフチームの中で、原作者は「部外者」になる恐れがある。上で述べたことなんて本当にごくごく一部のことで、テレビドラマ作りって、実に多方面の大人の事情でがんじがらめにされながら動いている。 だからこの「巨大な砂の城」を崩さないように進めていきたい。原作者には、この「テレビ的事情」を理解していただいた上で、できるだけ口を挟まないようにしていただくのがベスト。
テレビスタッフは、原作を尊重して扱い、原作の世界観に基づいて最高の作品に仕上げてもらいたい。そのためには原作者の意見も尊重して聞く。
原作者は、「一旦テレビに出てしまうものは、テレビを信用して任せる。基本口出しせずテレビ局の善意に任せる。ただ、言うべき時は言う」
そんな関係でいけるのが一番お互いにとって楽なのだとは思います。
しかし、今回の場合は、テレビ局の理論で洗脳されていたスタッフ、脚本家さんが、原作者の本気の思いを尊重していなかった。
全てはここのボタンの掛け違いだったのだと思います。
原作者「このドラマでは、一字一句、この漫画の通り忠実にしてください。お願いします」
スタッフ「わかりました」(空返事) がすべてということです。今回の場合、そこまで原作者が本気でそうしてほしいと願っていたことに、まったく正面から向き合おうとしていなかったのでしょう。
「そんなわけにはいかないところがあります。」と、最初に言っておけば多少は展開も違っていたでしょうに。
原作者の本気を見抜けなかった、または見て見ぬふりをした誰かの存在があり、「何とかなるだろう」と強引に引っ張っていった結果、取り返しのつかない事態になったという。
脚本家さんが一番叩かれていますが、彼女にしたところで、原作者がそこまで本気で言っていたということは見抜けていなかったのでしょうし、制作チームからも、そういう「原作通りでいきます」という命令は脚本家に行っていなかったと思われます。誰かがどこかで、「ああ、よくいる原作者が一番偉いんだから、私の言うとおりにしろ、という勘違いクレーマーね。まあスルーで」という解釈をしていて適当に脚本家に伝えていたと考えられます。
本来はディレクターも何人かいるべきで、各方面から来る声を調整するディレクターがいなくてはいけないのですが、経費削減で、そういう立場の人もいなかったとか。ひどい話です。
餅は餅屋。確かにそうです。
ですが、テレビ局のみなさん、あなたたちは忘れています。原作付きドラマを見る人の中には、原作が好きでドラマを見に来ている人が一定数いるということに。
原作の根っからのファンにとっては、たとえドラマが世間的には大うけで名作と言われようと、内容を捻じ曲げてテレビ的な演出に走ったものを見させられた場合には、「裏切られた」と悲しむ人たちが一定数いるということ
決して忘れないで下さい。
冒頭紹介した「ゆうひが丘の総理大臣」ドラマを見た時のショックと原作をつぶされ、尊重されていないと感じた時の悔しさ、私は四十数年経っても忘れられずにいます。せめて、「テレビでアレンジされたこのドラマを味わってください」ぐらいは欲しかった…
原作を扱うならば、もしもテレビ的な事情で何かを変更するとしても、原作へのリスペクトは忘れずに作っていただきたい。今回は日本テレビのテレビドラマに対して書きましたが、どの局の方にもお願いしたいと願うばかりです。
私の場合は「ゆうひが丘」でしたが、他のドラマで同じような思いをした人、きっといると思います。
私の世代は、週刊少年チャンピオンの全盛期体験者です。以前記事にした「青い空を 白い雲がかけてった」の時代。
「ドカベン」「ブラックジャック」「がきデカ」「マカロニほうれん荘」「レース鳩0777」「750ライダー」…枚挙にいとまがない…
素晴らしい時代だと思っている一方で、「マカロニ」で代表されるように、伝説の編集長壁村さんについては、素直に肯定できないものを感じます。
その中に、望月あきら先生の「ゆうひが丘の総理大臣」という漫画があり、これも大好きでした。
ある号で、この漫画がドラマ化されるというお知らせがありました。私は狂喜しました。
キャストも、中村雅俊さん、神田正輝さん、京塚昌子さん、由美かおるさん、宍戸錠さんなど、そうそうたるメンバーと知らされ、中学生だった私は胸震わせてドラマを見始めたことを覚えています。
ドラマが始まって、私は、唖然、茫然としてしまいました。
キャストの役職、大岩先生(中村雅俊さん)が「ソーリ」と呼ばれるようになったこと…
以外は、ほとんどすべてが、原作とかけ離れていたからでした。原作は中学校、ドラマは高校。部活も、あんなんだったっけ?生徒のバカ騒ぎも、こんな感じではなかったはず…
数回見て、すぐに私は悟りました。「これは、ゆうひが丘の総理大臣という漫画の登場人物、人間関係、シチュエーションを借りた、まったく原作とは違う学園ドラマを描いているのだ」と。
出演者の皆様を非難する気など毛頭ありませんし、すばらしい俳優さんたちの熱演だったことは間違いないです。なんだかんだで私も結構な回数、このドラマをそれなりに楽しんで見ました。
でも、ずっとずうとその時から、私の心の中には変なくすぶりが残り続けるのでした。
これ、自分が好きな、あの漫画の「ゆうひが丘の総理大臣」ではない。
別にこういうドラマ作りたいなら、「ゆうひが丘」の舞台借りる必要ないじゃん。「我ら青春!」「俺は男だ!」とどこが違うんだよ?
なんだか、原作がどこかで小ばかにされているような気がして、くすぶっていたのだと思います。
制作は、日本テレビでした。
あれからもう45年以上の歳月がたったのですね。そんな時、「セクシー田中さん」の原作者が亡くなられたという、悲痛なニュースが届きました。
これに関して、多くの記事が出ましたし、多くのコメント、見解、報告を見ました。そして分かったことがいくつかあります。
最も感じたことは、「テレビ制作サイドの考え方は、ある意味正しいが、やはりそれはあくまで、テレビのプロの思考枠内だけの発想力」です。そのプロ意識だけで物事を判断してはいけないということを、想像したり考えたりする能力が決定的に欠けている、そこに今回の悲劇の根本があったと思えるのです。
①脚本家の方々、テレビ局側の主張はある意味正しい
「餅は餅屋」ということです。事件直後、脚本家連盟のような方々がSNSでお気持ちを表明されたそうで、それらには多分に「セクシー田中さん」脚本の方への擁護と受け止められるコメントが多かったらしく、世間から大バッシングを受けていました。ですが私は、ある意味この、叩かれた主張は正しいと思うのです。
漫画には、漫画でしか出せない演出や描き方があります。これをそのままテレビドラマで再現して、テレビで見ている人たちが漫画を読んでいるような感動に至るかというと、そうなるとは言い切れません。逆もまたしかりです。
実写ドラマでしか出せない展開や演出もあり、それを漫画で表現して同じような感動を呼べるかというと、答えは「否」です。
それぞれに得意分野、プロ意識が発揮できるところがあり、それを別の土俵でやって必ずしもうまくいくとは限りません。
今回は原作者さんが「原作通りの形でドラマにしてくれ」と頼んでいたとのことですが、本当に原作通りに放送して、視聴率の稼げるドラマにできたかどうか、というと、若干の疑問は残ります。
テレビ制作サイドや脚本家たちは、そういうことが十分わかっていて、おそらくは、「原作通りの形で」の要望を片耳に挟みながらも、とにかく視聴率が取れる形を考え、脚本を作っていったのではないかと思われます。
②その前に、最初に決まるものは何か?キャストです
テレビのドラマ制作って、中身云々の前に、「誰がキャストなのか」が非常に重要視されます。視聴率の取れるキャスティングこそ「命」ですから、
だいたいのドラマのコンセプトが決まったところで、「何はともあれキャストを押さえないと」と、俳優たちのスケジュールをゲットすることが最優先されているはずです。そういえば「セクシー田中さん」では、キャスティングされた女優さんが、撮影のだいぶ前からベリーダンスのレッスンに通い詰めたと聞きます。それぐらい前倒しで準備しないと、撮影に対応できないですからね。メディアミックスも大事ですし。
ごく大雑把に言うと、決まるのは、コンセプト→キャスト→脚本の順なのでしょう。当然脚本家には、その俳優が持つ魅力を十分に発揮できるような脚本作りが要求されてきて、そこに脚本家の力量が問われるのでしょう。
③テレビの事情も知らない原作者は、制作側にとってどんな存在か
ここまで述べれば自明だと思うのですが、脚本家含めたテレビスタッフにとって、原作者って、一番大切な人でありながら一番厄介な人になる可能性があるわけですよね。
全てが「テレビ脳」で動いているスタッフチームの中で、原作者は「部外者」になる恐れがある。上で述べたことなんて本当にごくごく一部のことで、テレビドラマ作りって、実に多方面の大人の事情でがんじがらめにされながら動いている。 だからこの「巨大な砂の城」を崩さないように進めていきたい。原作者には、この「テレビ的事情」を理解していただいた上で、できるだけ口を挟まないようにしていただくのがベスト。
テレビスタッフは、原作を尊重して扱い、原作の世界観に基づいて最高の作品に仕上げてもらいたい。そのためには原作者の意見も尊重して聞く。
原作者は、「一旦テレビに出てしまうものは、テレビを信用して任せる。基本口出しせずテレビ局の善意に任せる。ただ、言うべき時は言う」
そんな関係でいけるのが一番お互いにとって楽なのだとは思います。
しかし、今回の場合は、テレビ局の理論で洗脳されていたスタッフ、脚本家さんが、原作者の本気の思いを尊重していなかった。
全てはここのボタンの掛け違いだったのだと思います。
原作者「このドラマでは、一字一句、この漫画の通り忠実にしてください。お願いします」
スタッフ「わかりました」(空返事) がすべてということです。今回の場合、そこまで原作者が本気でそうしてほしいと願っていたことに、まったく正面から向き合おうとしていなかったのでしょう。
「そんなわけにはいかないところがあります。」と、最初に言っておけば多少は展開も違っていたでしょうに。
原作者の本気を見抜けなかった、または見て見ぬふりをした誰かの存在があり、「何とかなるだろう」と強引に引っ張っていった結果、取り返しのつかない事態になったという。
脚本家さんが一番叩かれていますが、彼女にしたところで、原作者がそこまで本気で言っていたということは見抜けていなかったのでしょうし、制作チームからも、そういう「原作通りでいきます」という命令は脚本家に行っていなかったと思われます。誰かがどこかで、「ああ、よくいる原作者が一番偉いんだから、私の言うとおりにしろ、という勘違いクレーマーね。まあスルーで」という解釈をしていて適当に脚本家に伝えていたと考えられます。
本来はディレクターも何人かいるべきで、各方面から来る声を調整するディレクターがいなくてはいけないのですが、経費削減で、そういう立場の人もいなかったとか。ひどい話です。
餅は餅屋。確かにそうです。
ですが、テレビ局のみなさん、あなたたちは忘れています。原作付きドラマを見る人の中には、原作が好きでドラマを見に来ている人が一定数いるということに。
原作の根っからのファンにとっては、たとえドラマが世間的には大うけで名作と言われようと、内容を捻じ曲げてテレビ的な演出に走ったものを見させられた場合には、「裏切られた」と悲しむ人たちが一定数いるということ
決して忘れないで下さい。
冒頭紹介した「ゆうひが丘の総理大臣」ドラマを見た時のショックと原作をつぶされ、尊重されていないと感じた時の悔しさ、私は四十数年経っても忘れられずにいます。せめて、「テレビでアレンジされたこのドラマを味わってください」ぐらいは欲しかった…
原作を扱うならば、もしもテレビ的な事情で何かを変更するとしても、原作へのリスペクトは忘れずに作っていただきたい。今回は日本テレビのテレビドラマに対して書きましたが、どの局の方にもお願いしたいと願うばかりです。
私の場合は「ゆうひが丘」でしたが、他のドラマで同じような思いをした人、きっといると思います。
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