白雲去来

蜷川正大の日々是口実

向田邦子の新刊と三島由紀夫

2019-02-23 11:25:00 | 日記
二月二十日(水)晴れ。

新聞の書評で、向田邦子さんの新刊が出たことを知って、早速買った。向田さんの本はすべて読んでいるし、料理に関する写真集のような物も読んだ。野村先生の「幻の娘」さんが、先生と久しぶりにお会いした時に、バレンチノのセカンドバックと向田邦子さんの『父の詫び状』という本を一緒にプレゼントしたことがある。

その向田さんが台湾で飛行機事故にて亡くなったことを知った時は、とてもショックだった。向田さんは、私と同じ飛行機嫌いで、著書『霊長類ヒト科動物図鑑』中の「ヒコーキ」と題したエッセイでこう書いている。「私はいまでも離着陸のときは平静ではいられない」、あまり片付けて出発すると「やっぱりムシが知らせたんだね」などと言われそうで、縁起を担いで汚いままで旅行に出ると書いている。このゲン担ぎも虚しく昭和五十六年八月二十二日、取材旅行中の台湾苗栗県三義郷で遠東航空機墜落事故にて死去。五十一歳だった。

向田さんの新刊は『海苔と卵と朝めし-食いしん坊エッセイ傑作集』(河出書房新社刊)。これまでに様々な雑誌などで書いた食に関するものをまとめたものだ。野村先生の事務所が、赤坂のみすじ通りにあった頃、赤坂見附の駅の近くに、向田さんのお店「ままや」があった。何度か入ろうと思ったが、一人で入る勇気が無く、入らずにいたことを今でもチョッピリ後悔している。

向田さんの新刊を読み終えてしまうのが惜しくて、それこそチビリ、チビリと読んでいる。その本の中の「骨」と題した文章の中に、興味深い一節があった。

「友人に料亭のあるじがいる。その人が客の一人である某大作家の魚の食べっぷりを絶賛したことがあった。 
『食べかたか実に男らしいのよ。ブリなんかでも、パクッパクッと三口ぐらいで食べてしまうのよ』
 ブリは高価な魚である。惜しみ惜しみ食べる私たちとは雲泥の差だなと思いながら、そのかたの、ひ弱な体つきや美文調の文体と、三口で豪快に食べるブリが、どうしても一緒にならなかった。そのかたは笑い方も、ハッハッハと豪快そのものであるという。なんだか無理をしておいでのような気がした。男は、どんなしぐさをしても、男なのだ。身をほじくり返し、魚を丁寧に食べようと、ウフフと笑おうと、男に生れついたのなら男じゃないか。男に生れているのに、更にわざわざ、男らしく振舞わなくてもいいのになあ、と思っていた。
 その方が市ヶ谷で、女には絶対に出来ない、極めて男らしい亡くなり方をしたとき、私は、豪快に召し上ったらしい魚のこと、笑い方のことか頭に浮かんだ。」

説明の要もないだろうが、三島由紀夫氏のことである。ちなみに向田さんは新聞『赤旗』の愛読者であることを自ら明かしている。事務所の書棚にある彼女の本をもう一度読んでみたくなった。

私が役員の末席を汚している大行社の役員会議があって東京行き。夜に、先約があり、横浜に戻った。

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さつま揚げ列伝。

2019-02-22 13:21:22 | 日記
二月十九日(火)曇り。

朝食は、子供たちのリクエストで、鶏のから揚げ、竹輪の磯辺揚げ、タラコ、生ワカメの味噌汁。竹輪の磯辺揚げが好きで、「ホカ弁」では、必ず、磯辺揚げ入りの物を買う。家で食べる時は、安い竹輪でやっていたが、今日は、少々勿体ないと思ったが、豊橋の千鳥足の竹田君から頂いた「ヤマサ」の竹輪を使った。これがことのほか美味しく、子供たちにも評判が良かった。いわゆる「練り製品」が好きで、さっと焼いてから生姜醤油で食べる。熱々のさつま揚げを生姜をたっぷり入れた醤油につけて食べる。冷えたビールが美味い。さつま揚げは北海道では「天ぷら」と言う。初めて聞いた時は、?マークが三つぐらい浮かんだが、まあどうでも良いことだ。

この時期しか売り場に出ない「生ワカメ」の味噌汁と、今朝は、私なりに贅沢な朝となった。

さつま揚げの本場は、その名前の通りに、鹿児島県なのだろうが、宮城県や豊橋、千葉県や横浜にも美味しい店がある。鹿児島の物は、醤油のせいか少し甘い。関東の物は、ちょっと辛いような気がする。どちらも好きなのだが、おでんに入れたり、甘辛く煮たり、そのまま食べたりと、酒の肴にもご飯のおかずにも良しで、飽きない。

話は変わるが、最近、編み物をしている人を見かけなくなった。その昔は空いている電車の中などで、編み物をしている女性を見かけたものだが、今では、ほとんど見ない。子供の頃は、母が買ってきた毛糸を両腕に通して、毛糸を巻く手伝いをしたものだった。下町の家では、何処の子供も、マフラーやセーターなどは、ほとんど手編みだった。余った毛糸で作ったのだろう、メチャクチャの柄になったマフラーを母からもらった時は、学校にして行くのが恥ずかしく、カバンの中に入れて使わなかったことがある。

たまに子供と一緒に洋服を買いに行くことがある。GUやH&Mといった若い人向けのお店だ。まず、商品が豊富なのと、その値段の安いことに驚く。千円や二千円程度で、シャツやセーターなどが買えるのだ。これでは、手間暇かけてセーターなど編む必要もなくなると言うものだ。懐具合の悪い親としては助かるが、何か、没個性で薄っぺらな気がしてしてならない。

夜は、月に一度の名前だけ真面目な会合を弘明寺の「花笠」にて開催。二時間ほど呑み、料理を堪能してから、有志にて関内に転戦。十一時前に送って頂き帰宅。

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かつて読んだ本の中に・・・。

2019-02-21 17:54:26 | 日記
二月十八日(月)晴れ。

昨夜は早く寝たせいもあって、バシッと起きられた。朝食は、タラコ、「ヤマサちくわ」のさつま揚げ三種、マツタケのお吸い物にとろろこぶ入り。昼は、小樽旅行から帰ってきた子供と駅で待ち合わせて、マックでエビカツバーガー。夜は、子供の安着祝いで、家族でスキヤキと「ヤマサ」のさつま揚げ三種。

過日、事務所に行った折に、書棚から「読んだ覚えがあるが、ほとんど内容を覚えていない」本を何冊かまとめて自宅に持って来た。例えば、吉村昭の『昭和歳時記』(文藝春秋)。読んだことは間違いない。最終頁の余白に「平成六年一月二十四日(月)読了。二十七日は先生の百ケ日法要がある。早いものだ」との書き込みがあった。当時は、読了した本の最終頁に、このような書き込みをしていた。だからいつ頃読了したかは分かるのだが、年々酒で頭が腐って記憶が薄れる。

山本七平の『日本人とは何か・上下』(PHP文庫)には、読了した年月日はなかったが、その代わりに、本の中に平成四年の七月に行われた参議院選挙において野村先生が同志らと共に立候補した「風の会」の「事務所開設のご案内」の葉書と全日空の24便の搭乗券が挟んであった。「たたかう国民連合・風の会」の事務所開設日は、平成四年の六月十九日で、場所は麻布十番の二丁目。全日空の24便は、調べてみたら伊丹空港行きであった。四月九日のフライトであるから恐らく、野村先生のお供をして風の会の大阪選対開設の準備に行った折の物だと思う。本の内容は失念していたが、風の会の選挙のことが甦って来て、懐かしさでその葉書と搭乗券をしばし見つめていた。あれから二十七年が過ぎた。

かつて読んだ本も、時間をおいて再読するとあらたな発見があって楽しい。しばらくは、事務所の「蜷川文庫」の整理をしてみようと思っている。

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朝粥に勉強会に。

2019-02-21 17:24:58 | 日記
二月十七日(日)晴れ。

寝る前に「しじみ習慣」を二粒飲んだが、焼け石に水の状態。汗も酒臭いような気がするが、いや加齢臭かもしれない。九時半過ぎに、昨日のメンバーに加えて清和氏の奥さん、カメ&アコちゃん、私の愚妻の八人で朝粥をしに「安記」へ。まずはビールで、二日酔いを吹き飛ばす。岐阜の細川先生より「『安記』で朝の呑みとお粥ですか。いいなあー」のメールが入る。一時間ほどで豊橋に帰る竹田氏を小澤君に新横浜まで送ってもらう。小沢君はその後、伊勢原へ野村先生のお墓へお参りに。

時計を見ればまだ十一時前。野毛に出撃して、最近オープンした居酒屋から「すずらん」へ。私は、夜に勉強会があるので、二時前にお暇して自宅に戻った。急ぎ風呂に入って一時間ほど寝てから、勉強会の会場へ。

菊水国防連合の主催する第三回・国防研究会が行われ出席。第一部の講師は、民族革新会議事務局長・國の子評論社社主の横山孝平氏が「「御代がわりの諸行事と拙速な新元号事前公表問題を考える」。第二部は、葛飾区議会議員・日本国民党代表の鈴木信行氏が、「元号と日本の正統性」と題して講演した。会場は満席で、この問題に対する関心度の高さを表していた。終了後は、さすがに、寄り道する気持ちも気力もなく、自宅に戻った。

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墓参、そして一献会。

2019-02-21 17:01:38 | 日記
二月十六日(土)曇り。

今日は、平成十年に亡くなられた私の先輩、山崎邦雄さんの命日。毎年、縁の人たちと一緒に墓参に行っている。午前十一時に迎えに来てもらい、その昔、ドリームランドという遊園地後に整備された市の墓苑へ向かう。もう三十年以上前に、ドリームランドに来たことがある。その跡地には薬科大学が建ち墓苑が整備され、正に夢の跡地となっている。

皆で、手を合わせ、来年もまたこのメンバーが欠けることなく墓参に来れますようにと泉下の山崎さんにお祈りした。その後は、新横浜駅近くにある三会寺へ。後輩の板垣哲雄君の墓参。正月に、門下生と共に来たが、今度は違うメンバーにて彼に手を合わせた。亡くなってから何年が過ぎてもゆかりの人たちが集う。きっと喜んでいるに違いない。

夜は、社友で豊橋在住の竹田、札幌の小澤両君が来訪して「やまと」にて一献会。墓参で一緒だった統一戦線義勇軍の清和崇氏も同行。しばらく飲んでから竹田、小澤の両君はサリーズバーへ。私たちは「オアジ」に転戦。墓参の後の直会で昼間から飲んでいる私たちは、ここで解散。

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