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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

古聖は死なず

2016-02-26 13:00:27 | 哲学・思想
ブッダ、イエス、孔子、老子…所謂古聖たちの教えというものは、広く知られていますね。
どこまで彼ら自身の言葉であるか判然としてないにも関わらず、当たり前のように一般にはそうしたものとして受け止められているようです。
考えてみれば、驚くなかれ!彼らの生きた時代から二千年以上も経っているのですよ!
これはもう奇跡に近いことと言わねばなりません。
そしてその残されているごくわずかな断片に過ぎないような彼らの残した記録をもとに、これまで数多の学者、信奉者により、「キリストの福音の神髄とはコレコレであり、本当にブッダが伝えたかったことは何々である…」といった、諸々の決めつけた見解に基ずく解釈で溢れかえっている様相になっています。
でも…真実のことは聖者自らに聞いてみなきゃ分からないのです!野暮な話ですが…
私がいつも感じるのは、彼らは本当には何を伝えたかったのだろうか?…その教訓とか真理らしきことを織り込んだ教えだったのだろうか?
いや、果たして抽象的な言葉をもってする悟性で捉えられるような教えだったのだろうか?
そこには、言葉に言い表すことのできない、活きたハタラキというものが醸し出されていたのではなかっただろうか…ということなのです。
この事が抜け落ちてしまったなら、ただの観念的な言説しか残りません。
そこに動的エネルギーというものがあったとすれば、後世の物知り顔の固定した結論じみた所謂正統の基督教も、正法による仏法の如きものも出る幕などないじゃありませんか!
銅像じゃあるまいし、それらの教えの意味するものは既に終わってしまったとでも言うのでしょうか!
活きたハタラキとは絶えず創造過程にあり、生成して止まないものです。
イエスの福音も老子の無の道も、この客体化された長きにわたる現実世界の壁の中で、その内実的なものは封印の憂き目に遭っているのかもしれません。
しかし、一度この見える現実の裏側のベールが開かれたなら、今もなお生成し続ける創造的力と共にあることに気づかされるに違いないでしょう。
一面からみると、彼ら古聖たちの教えというものは、この客観世界とされる現実とは何の関係も無い、我々の内面世界に関することばかり語られているように思います。つまりは悟りや超越体験といった契機に依らなければ開示され得ない秘教なのです。
(もっともこの悟りという事態そのものからして前述のように、実証される世界とは縁も所縁も無いことであり、それについての固定した見解など出る幕ないものと言えます。活きたハタラキに依らずば起こり様の無いものです。)
一方、別の観点からみると…ユダヤ=キリスト教などは救世主、神の国の到来について多く宣べ伝えられていることが知られていますが、そうでなくともブッダにしても老子にしても、又幾多の古聖たちの教説には、(直接的な言辞は無くても)ことごとくがこうした来るべき調和世界の現実世界への応現について語られているのを感じます。
それは何よりも彼らの言葉がこうして残されている、という事自体にそうした意志的なものを思わされます。
”言葉が述べられる”ということは”現実に物申す”ということであり、こうした深いところからの意志の表れとみるべきなのです。
(それはこのブログもそれに肖ろうとしている次第なのです)
そして又、悟り、覚醒、超越体験なるもの…それぞれの子細な解釈など到底試みる気も無いですが、ある視点から見れば、それまで我々の内に秘められていた、封印されていたものが、深層意識から表面意識を貫いて顕わになった…という事を意味しているように感じられるのです。
この辺のことが、私が常々悟りや覚醒というものは個人に纏わる何かに帰せられるものでも、個人の内面という領域に留まるものでも無い、と述べている所以なのです。
そしてこの秘められたる封印を解き放つものこそが、活きたハタラキに他ならないでしょう。
それが顕わになるということは、客観世界からみれば、死に絶えた古の教えの復活をもたらし、この今にも破滅に向かわんとしている現実世界を新たに切り開く突破口を意味していると言えるでしょう…
それはある限定された一宗派、一グループにのみハタラくというものでなく、全ての普遍に及ぶことであろう…
ブッダ、イエスも蘇り、今も創造は新たなり…













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