老子道徳経の第一章に
「故常無欲以其妙 常有欲以観其徼」
とありますが、この個所は読み方も各学者、研究家によってまちまちであるし、その意味も定まったものなど無いようです。
それはもとより老子の世界そのままのように、決まった意味など無い、ということを示されている気もしますが、あくまで素人の私が感じたことを書いてみようと思います。(”これが老子の真解だ!”などと間違っても思いなさらぬように…)
各学者さんたちの解釈を悩ませているのは、おそらく徼なる一文字では無かろうかと思います。
私はこの文字はここ以外ではまずお目にかかったことが無いですが、”きょう”と読むのは大体一致しています。
全文の妙の文字に対応しているらしいことは分かりますが、してその意味は? さあ…。
多くの解説では「常に無欲を以てその妙を観、常に有欲を以てその徼を観る…」と読んで、妙なる無欲の道は、有欲によって捉われとなる…というような意味合いのことを述べているようです。まあ、いかにも老荘が言いたそうな言葉には違いないかも知れません。
”欲出しちゃあ、妙なる道からハズレちゃいますよ…”みたいな…
でもそうすると、それに続く「この両者は同出にして名を異にす。同じくこれを玄と謂う…」という以下の文が何となく意味合いが伝わってこないです。どちらも同じところから出ているらしいです。
相対未分から形あるものへと生成する道のハタラキを言い表しているのでしょうか?そうかもしれません。
一方ではこんな読み方も有ります。「常無以てその妙を観んと欲し、常有以てその徼を観んと欲す。」
ここでどうも常無とか常有というのは、それぞれ常に形なき世界、形ある世界について述べているような気がします。
妙というのは、何処とか何時とかいうものを超えて、常に至る所遍在、遍満している…といったものでしょうか…それじゃあ、徼というのは?
私は、(真実はなお無妙?ですが)、形あるこの世界に有って、ポツンと出たある一点の穴のようなものではなかろうかと思います。
そこから常無の世界に遍満している妙なるハタラキが現れ出るのです。
あたかも大地のある一点から水がコンコンと湧き出ている泉みたいな…
それはいわば人生の裏側と表側をつなぐ通路なのです。
この世界では時間や空間という制約が有りますが、無なるハタラキはその有限のものを借りて顕現するのです。
それは人体的な面ではどこかのチャクラなのかも知れません。あるいは例えば出口王仁三郎師が霊界に参入したという高熊山の磐座といった、 エソテリック・ポイントかも知れません。でもそのあるポイントに関わっていてもいつもそのハタラキに預かるとは限りません。
そこには時という妙なる要素も絡んできます。
例えば人が神秘体験なり目覚め体験に預かるというのは、この世においては誰でもが、”その時、その所”という制限された時場を借りる訳ですね。(最初から目覚めている人というのは一度も常有の世界にはいない、オバケなのです!)
その時場がその徼なるものとなるのではないでしょうか?
このように解せば、この章の終わりの部分
「玄の又玄は、衆妙の門なり」
の文意がスンナリととれてきそうです。
それは我々の側からは、”ここ、かしこ”にも、”いつ”にも限定されるものでは無い。しかし無なる道のハタラキはこの現実に自らを限定して、ある点を借りて現れる…それは誰にも(衆妙)開かれた門である…
ホントのところは老子に聞かなきゃわかりません。
「故常無欲以其妙 常有欲以観其徼」
とありますが、この個所は読み方も各学者、研究家によってまちまちであるし、その意味も定まったものなど無いようです。
それはもとより老子の世界そのままのように、決まった意味など無い、ということを示されている気もしますが、あくまで素人の私が感じたことを書いてみようと思います。(”これが老子の真解だ!”などと間違っても思いなさらぬように…)
各学者さんたちの解釈を悩ませているのは、おそらく徼なる一文字では無かろうかと思います。
私はこの文字はここ以外ではまずお目にかかったことが無いですが、”きょう”と読むのは大体一致しています。
全文の妙の文字に対応しているらしいことは分かりますが、してその意味は? さあ…。
多くの解説では「常に無欲を以てその妙を観、常に有欲を以てその徼を観る…」と読んで、妙なる無欲の道は、有欲によって捉われとなる…というような意味合いのことを述べているようです。まあ、いかにも老荘が言いたそうな言葉には違いないかも知れません。
”欲出しちゃあ、妙なる道からハズレちゃいますよ…”みたいな…
でもそうすると、それに続く「この両者は同出にして名を異にす。同じくこれを玄と謂う…」という以下の文が何となく意味合いが伝わってこないです。どちらも同じところから出ているらしいです。
相対未分から形あるものへと生成する道のハタラキを言い表しているのでしょうか?そうかもしれません。
一方ではこんな読み方も有ります。「常無以てその妙を観んと欲し、常有以てその徼を観んと欲す。」
ここでどうも常無とか常有というのは、それぞれ常に形なき世界、形ある世界について述べているような気がします。
妙というのは、何処とか何時とかいうものを超えて、常に至る所遍在、遍満している…といったものでしょうか…それじゃあ、徼というのは?
私は、(真実はなお無妙?ですが)、形あるこの世界に有って、ポツンと出たある一点の穴のようなものではなかろうかと思います。
そこから常無の世界に遍満している妙なるハタラキが現れ出るのです。
あたかも大地のある一点から水がコンコンと湧き出ている泉みたいな…
それはいわば人生の裏側と表側をつなぐ通路なのです。
この世界では時間や空間という制約が有りますが、無なるハタラキはその有限のものを借りて顕現するのです。
それは人体的な面ではどこかのチャクラなのかも知れません。あるいは例えば出口王仁三郎師が霊界に参入したという高熊山の磐座といった、 エソテリック・ポイントかも知れません。でもそのあるポイントに関わっていてもいつもそのハタラキに預かるとは限りません。
そこには時という妙なる要素も絡んできます。
例えば人が神秘体験なり目覚め体験に預かるというのは、この世においては誰でもが、”その時、その所”という制限された時場を借りる訳ですね。(最初から目覚めている人というのは一度も常有の世界にはいない、オバケなのです!)
その時場がその徼なるものとなるのではないでしょうか?
このように解せば、この章の終わりの部分
「玄の又玄は、衆妙の門なり」
の文意がスンナリととれてきそうです。
それは我々の側からは、”ここ、かしこ”にも、”いつ”にも限定されるものでは無い。しかし無なる道のハタラキはこの現実に自らを限定して、ある点を借りて現れる…それは誰にも(衆妙)開かれた門である…
ホントのところは老子に聞かなきゃわかりません。