精神的な探究に関わる方なら、例えば”人間本来神と一つ”といった教説をもとに、自分で懸命にそう信じようとしたり、自己認識というか、何とか気付こうとした事が有ることと思います。
私はそうやって気付きを得たことなどただの一度もありません(笑)
自我と真我とを見分けようなどと試みようとして、止めども無く思考が働き出して却って混線するだけになってしまったり…
まず気付くべきことは、こうした事というのは、自我が自我に働きかけるようなもので、堂々巡りなのだということではないですか?(笑)
私が元来が自意識過剰で、考えすぎる質なので、すぐに”こりゃあ土台ムリ!”と思えるのかもしれません。
そのように考えすぎる質だからこそ、考えることの限界に気付ける?のかもしれません。
欠点や弱点が有っても,そのことを自覚出来ることは逆に大変な強みでもあると思います。
私はいつも(生噛りですが)哲学的な事ばかり書いていて、いつも熟慮を重ねるような事ばかりしているのかと言ったらちと違います。
ホントは思考を論理的に構築したりする事が苦手、というより全く出来ないのです。すぐ飛躍ばかりして…
頭悪いもんで…それでいてエラそうに”学びのすすめ”などと宣うのはご愛敬という他有りません。
勿論、頭のいいこと、知識が豊富なこと、教養の有ることなどが精神的な道に直結する訳ではありません。
むしろ小賢しい知恵なんぞ要らん場合も有るかも知れません。
しかし、私が”学ぶこと”と言っているのは通常思われている意味で述べているのではありません。
こういう言い方は逆説的な事にも触れ、実に言い表すのが難しいのですが、”自分自身でよく考える事”と言ったら、いくら考えたって分からんものは分からんし、多分どこにも行きつかなずに頭の中で堂々巡りするのがオチでしょう。
ではどういう事かと言うと…
思考をめぐらしながらも”光に照らすこと、照らされること”と言ったらいいでしょうか? また例によって飛躍的な話かも知れませんが…こういう感じというものが私にいつの間にか芽生えたのです。
先の思考の限界というのはここで明らかになるのです。この光というのは、自己を超えたところから照らすもののことを象徴的に言い表しているのですが、このものが気付きをもたらすのです。
それは正しく闇(自己の限界に昏いことなど)を照らす光です。
啓蒙と言う言葉が有りますね。あまり深い意味など知らずに使われているみたいですけど…”蒙を啓く”とはそういう意味です。
私はこの場合、”啓く”ものじゃ無くて”啓かれる”ものだと思いますが…
それは限界ある自己が直接光を求める事でなく、自己を超えた光により、蒙が啓かれることです。
蒙が啓かれることが光に預かることと直結するのです。これは二つのことではありません。
西欧哲学で啓蒙主義と言われているものが有りますが、そこで蒙を”啓く”ものは人間の理性です。
でも元来は”自己を超えた光”のことであって蒙を啓く主体が入れ替わってしまったのです。
哲学というものも本来は直観的な宗教的な道と切り離せないものだったのですが、人間理性ばかりが発達して観念に浮くか、実用に流れるばかりになってしまった感が有ります。
これは近世の所謂ヒューマニズムの台頭が、人間の内なる神性を押し込めてしまったことを如実に物語っています。
人間は新たに学び直さないと、いよいよ蒙昧は破滅まで達しようとしています。
新たな啓蒙主義の台頭を待ち望むばかりです。
それにより考えることの限界を学ばされるのです。
今日の東京は一時気温の上昇とともに、日差しが何時に無く全身に差し込むように強く感じました。
私はそうやって気付きを得たことなどただの一度もありません(笑)
自我と真我とを見分けようなどと試みようとして、止めども無く思考が働き出して却って混線するだけになってしまったり…
まず気付くべきことは、こうした事というのは、自我が自我に働きかけるようなもので、堂々巡りなのだということではないですか?(笑)
私が元来が自意識過剰で、考えすぎる質なので、すぐに”こりゃあ土台ムリ!”と思えるのかもしれません。
そのように考えすぎる質だからこそ、考えることの限界に気付ける?のかもしれません。
欠点や弱点が有っても,そのことを自覚出来ることは逆に大変な強みでもあると思います。
私はいつも(生噛りですが)哲学的な事ばかり書いていて、いつも熟慮を重ねるような事ばかりしているのかと言ったらちと違います。
ホントは思考を論理的に構築したりする事が苦手、というより全く出来ないのです。すぐ飛躍ばかりして…
頭悪いもんで…それでいてエラそうに”学びのすすめ”などと宣うのはご愛敬という他有りません。
勿論、頭のいいこと、知識が豊富なこと、教養の有ることなどが精神的な道に直結する訳ではありません。
むしろ小賢しい知恵なんぞ要らん場合も有るかも知れません。
しかし、私が”学ぶこと”と言っているのは通常思われている意味で述べているのではありません。
こういう言い方は逆説的な事にも触れ、実に言い表すのが難しいのですが、”自分自身でよく考える事”と言ったら、いくら考えたって分からんものは分からんし、多分どこにも行きつかなずに頭の中で堂々巡りするのがオチでしょう。
ではどういう事かと言うと…
思考をめぐらしながらも”光に照らすこと、照らされること”と言ったらいいでしょうか? また例によって飛躍的な話かも知れませんが…こういう感じというものが私にいつの間にか芽生えたのです。
先の思考の限界というのはここで明らかになるのです。この光というのは、自己を超えたところから照らすもののことを象徴的に言い表しているのですが、このものが気付きをもたらすのです。
それは正しく闇(自己の限界に昏いことなど)を照らす光です。
啓蒙と言う言葉が有りますね。あまり深い意味など知らずに使われているみたいですけど…”蒙を啓く”とはそういう意味です。
私はこの場合、”啓く”ものじゃ無くて”啓かれる”ものだと思いますが…
それは限界ある自己が直接光を求める事でなく、自己を超えた光により、蒙が啓かれることです。
蒙が啓かれることが光に預かることと直結するのです。これは二つのことではありません。
西欧哲学で啓蒙主義と言われているものが有りますが、そこで蒙を”啓く”ものは人間の理性です。
でも元来は”自己を超えた光”のことであって蒙を啓く主体が入れ替わってしまったのです。
哲学というものも本来は直観的な宗教的な道と切り離せないものだったのですが、人間理性ばかりが発達して観念に浮くか、実用に流れるばかりになってしまった感が有ります。
これは近世の所謂ヒューマニズムの台頭が、人間の内なる神性を押し込めてしまったことを如実に物語っています。
人間は新たに学び直さないと、いよいよ蒙昧は破滅まで達しようとしています。
新たな啓蒙主義の台頭を待ち望むばかりです。
それにより考えることの限界を学ばされるのです。
今日の東京は一時気温の上昇とともに、日差しが何時に無く全身に差し込むように強く感じました。