人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

意識とハタラキ

2016-02-20 16:37:38 | 意識、照明
私がいつも”ハタラキ”と呼んでいるものは、世間で認知されている訳でも、科学的に解明されている訳でも無く、決まった呼び名など無いようです。
気、波動、聖霊、ダンマ…と古来より宗教や精神的な道などでそれらしきものは言い伝えられて来ました。
これらは果たして同じものなのか、違うものなのかどうかは私にはわかりません。
流派によっては、”これこそはホンモノなのであって、他のヘンな霊だの気だのと一緒にされちゃあ困る!”などと誰が決めたのか、自派の専売特許みたいなことを本来形なき、見えない物にラベルを張り付けるような向きもあります。
こうした関わりで、ヘンな事になる例も無いわけではありませんが、それについては、”どの世界でもおかしな扱い方をしたら、おかしな結果を招くこともある”という理解さえあればいいと思います。
私見では例えば”気”と呼ばれるものは本来ニュートラルなもので、最初から邪気のようなものが有る訳では無く、邪な意識状態に応じたものが現出したまでと捉えています。
(私自身はいくつかの異なる流派に関わったもの、私自身に発動?したものを通じ、ヘンな事態になったことは一度も有りません。)
それぞれの違いについて言えば、確かにその異なる流派によって、その受けた感じ、現象面でも微妙に違うところがあるのも確かです。
あるものは非常にダイナミックに、それを受けた者を法悦の歓喜に導くものもあれば、より微妙に、静寂の内に存在に染み透っていく感のあるものもあります。
いずれにしても、それらに共通して言える事は、形なきものであり、人智を以ては捉えられないものであり、我々の肉体、精神にまでもどこまでも浸透するものであり、そのハタラキは全てのものを活性化させてやまない生命力、又分裂したものに調和をもたらす愛の力を伴うものである、という事です。
これらが微妙に異なった有り様を示すのは、先の例と同じくそれぞれの異なった意識の有り様に応じたものと思われます。
実に意識とハタラキ的なものはつながり合っているものなのです。

多くの宗教や精神的な道において導師と呼ばれる存在の必要性が語られてきましたが、その理由の一つは、その導師を通して、その見えないハタラキが弟子の存在へと流れ、伝わっていくためだと思います。所謂イニシエーションです。
もっともそれは私の経験から言っても、奇異に感じられるかもしれませんが、生身の肉体を持った存在でなければならない、という訳ではありません。ラマナ・マハルシの場合はインドの聖山だったし、そのような例は沢山あります。
私はD会のM女史のような存在に巡り合えたのをとても幸運に思います。
そのハタラキの中で私は自他の無い一如、調和世界に引き込まれてしまう事が幾度もありました。
又小池辰雄先生も全身から漲るような霊的息吹きが伝わってくるものがありました。…
このように初めにハタラキを感受されるにあたっては、伝えるもの(これは人間とは限らない)と受けるものとの二者が向き合わなければならないのです。
そこでは、ハタラキなるものを介した二元性というものが前提になるのです。
”最初から悟っている”などと非二元的言説を自分で分かろうとしたって、生きたハタラキを介さなければ、ずっとそんな空論を観念し続けるだけです。
私の場合、最初は、それそれの場面でハタラキ的なものを与えられていても、その場限りのものだと感じていたものでしたが、ある時”身に覚え”始めてから、特定のハタラキの場に関わっていなくとも、自分に固有にハタラく感じになってきました。
それはあくまで私が修行したとかで開発されたものでなく、自ずからそうなったのです。
外から受けるというよりも、自動的に起きてくる感じです。
前述したようなこのハタラキ的なものの流派による違いなどについても、どっちでもよい感じになりました。
ハタラキはハタラキ…どこでどうだろうと、愛と命に包まれるだけ…
顕れは様々…でも源は一つ。
それも私の意識の変化と連動してそう感じられて来たのです…。





























コメント
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