人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

個と普遍

2016-02-21 13:21:29 | 哲学・思想
現代に生きる多くの文化人を自認する人から観て、今の北朝鮮という国の在り方は不可解でなりませんね。
我々日本人だってかつては”神国日本のために…”と一人一人の内心はともかく、命を捧げることを信じ込まされ、実際にそう生きるように仕向けられていたのです。
このような個人の自由が、全体的なものに飲まれ、支配されてしまうようなことは、ご存知のように規模は違っても狂信的な組織宗教でも観られるものです。
これを”オカシイ…狂っている…”と感じるのは、あくまでそうした機構から離れている者の視点からなのであって、例えば洗脳的宗教の信者の中ではホントにその教団に心身とも隷属してしまっていても、当たり前のようにまるでロボットのように生きる事を疑わない者もいるのです。
所謂常識人たちが、それらをオカシイと感じるのは、個人というものが有って、自由に判断し、生きて行くことが当たり前である、という認識が有るからでしょう。
個的なものが、国家であれ教団であれ全体的なものに消えてしまう、というこの魔術めいた事象は何時我々の周りで起きるか分かりません。
例えば”個人なんて無くて、全体的なものだけ有る…”と、説きまわっている、非二元教も今のところ組織的猛威は振るわれていないようですが、システムとかプログラムが確立しだすと、いつ忌まわしき洗脳集団に化ける要素も無いではありません。
個というのは分離であるという、しかし私が何よりも強烈に、そして忌まわしく感じる分離現象は、個なるものが全体的なものの部品と化した超個我ともいえるそれらの集合体です…
個なるものが無い、ということは私やあなたが、私やあなたでいられなくなるという事です。
それは、泣いたり笑ったりできる、具体的な人間である私やあなたの死を意味します。
近代ヨーロッパ文明において、そしてその洗礼を受けた日本人も戦後は、個人の尊重を叫ばれるようになりました。
そしてこの文明社会では個人主義が蔓延してて、そのひずみも現れてきていると言われます。
でも私はあらゆる人類の歴史を通じて、この個なるものはかつて一度たりとも、この現実社会で生かされた、日の目を見たことは無かった…と言っていいと思います。
如何なる時代でも支配していたのは、ローマ教会なり、資本主義なり、共産主義なり、国家社会主義なりといった何らかの全体主義的機構でしょう。
個人主義なるものがあったとしても(ホントはそんなものあったらオカシイ!)、イデオロギーに感染した個人などもはや生きられやしませんよ!
個人主義というものこそは幻想と言えるでしょう。
個人というものは、その見えたままの個人である限り、決して生きられないと思います。
ここにポツンと一個人というものが、それだけで存在している訳では無いのです。
表面的な個人の裏面には普遍的人間ともいうべきものがある! 個的なものは普遍的なものと結びついているのです。
普遍といいますが、私はそれを全体とは呼びません。何故ならば全体と言った場合、そこには全体像というもので表せるように壁、輪郭があり、形あるものを想起させるからです。
遍くというのは限定出来る何ものも無い、ということです。
これまでの人類の歴史は限られた個的なものが、その局面においてもっとも強力なものとされる全体的なものの力を掌握する事で、権力構図を形成してきたとも言えるかと思います。
この全体と思えるものこそは、普遍的なものの歪んだ影に他ならないでしょう。
普遍的なものと共にある時、他から力を取り込む、という発想は生まれ得ません。
そのままで充足しているからです。
そして”私が私で居られる”ということは、この普遍的なものとつながっているからです。
個的なものが普遍的なものに飲まれてしまうという事もありません。
個が個である源から切り離されては、ホントの個的人間など現れ出ることなど無かったのです。
こうしたことを聞かされても、現実離れしていると感じるかも知れません。
でも何も、ワンネス体験のことなど持ち出すことも有りません。
”私が私で居られる”と感じられるほどリアルなものは無いです。
そしてそれが自分だけでなく、他者との関係の中で感じられたら…
たとえ二、三人の関係であったとしても…
それは個的なものが現実世界に歩み出た芽生えと言えるでしょう。
その場は個にして普遍的なものの音信が奏でられる事でしょう…。












コメント
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