学校の勉強で算数、数学程呪わしきものは有りませんでした。
あんなものが有るおかげで「僕は勉強出来ない、バカなんだ」と劣等感に苛まれることになったんです。あれさえなけりゃ、いい大学に入って、大学教授にでもなれたかもしれないのに?…(バカ田大学とかね…)
そもそも私の思考回路は、あの数字の世界向きには出来てないのです。
世の中そんなに割り切れてたまるかってんですよ!
方程式とか言ったって、野球で勝利の…なんかいつも崩れちゃうじゃないですか!
ウソをつかないという数字にみんなダマされてるし、いつもそれが重ーくのしかかってるんです。”数字を上げろーっ!”とかね…
私は、”世の中からすべての数字が消えて全部0ゼロになっちゃえばいい…”とどんなに願ったことか!
そうです!ゼロの前ではどんな数字も消えちゃうんです。プラスもマイナスもね。
人生では、金も無い、知恵も無い、体力も無い、何の取柄も無い…など無いことを有難がる事はまずないですね。そういう人は役立たずの、人生の敗残者みたいに思われてしまいます。
だから物心付いた頃から、学校でも、家庭でも(そういう人にならないように)一歩一歩努力して、より進歩、より増進、より充実と…積み重ねていく事を奨励されます。
その事自体別に悪くないです。ただこうした言わば足し算式、掛け算式歩み方というものが、直線的にその目差す方向に導いてくれるものかどうかは分かりません。
これは又昔から文明人には”人類というものは、原始時代から現在に至って段々進歩して来て、未来に向けて進歩し続けて行くものなのだ…”という楽観論が頭に染み込んでいるようなところと関係しているのかもわかりません。
宗教、スピ界でもこのような霊的問題にアダプトされた楽観的進化論のようなものが根づいているようです。
一歩一歩霊的段階を登っていくような修行システムなどもそうですが、”信仰、探究をし続けていれば、より高く、より深くなっていくものなんだ”と知らず知らず思い込んで行くようです。(何かが約束されてるんでしょうか?)
このような自動的?エレベーター的な修行、信仰プロセスにハマると容易に脱線出来なくなります。
そんなことしたら、折角それまで積み上げてきたものを無くすことにもなり兼ねません。進歩のための信仰もグラつく…
それに、それまで費やしてきた時間と労力(とお金)は一体なんだったのか、って事も絡んでくるとますます難しくなります。
そして、”果たしてこれでいいんだろうか?”と感じられたら、また不如意の事態でも起きて、どうにも立ちいけなくなったら…
全てを無に、ゼロにしてしまう悪魔の使いが訪れるかも知れません。
その前ではこの世のどんな足し算式も、掛け算式も無効です!いや計算など成り立ちません!
そこではゼロという絶対数が支配しているのです。
この世であなたが学んできたもの、為してきたこと…皆無になります。(この世に戻ってきたら戻るかもわかりませんが)
そこで、あなたはあなたの無知、無能を知らされるだろう…しかし同時にあなたの限界も無い…という事も…
ゼロとは何も無いのではない、無限へと開かれているのです。
これが実に現界において自らの限界ある知恵、能力によって限りなく進歩して行くものだ…という信念に対する強烈なパラドックスです。
ゼロを知らない人間は無限など分かるはずがないのです。
頂上へ行くことにばかり捉われると、頭だけが胴体から離れて浮遊してしまうような事にもなりかねません。
その体は見えないところで無限に広がる基礎とつながっているのです。
”もう、もう自分は何者でも無かったのだ…”という事を受け入れるのはアッサリ自分の敗残を受け入れる事かも知れません。
けれど、勝つとか負けるとかいうのは、数の支配した現世の偏った論理に過ぎません。
誰とも勝負などする必要が有りません。(己とも!この勝負が一番キツそう…より頑張らないと…)
ただこの世界ではやはり実数というものは勿論ありますが、”ゼロ=無限”という手放しの法則にのっとることで、大部ラクに生きられるんじゃないでしょうか?
(私が所謂非二元原理主義にものすごく違和感を感じるのは、元来カオスの世界で育って来たからかもしれません。その割に”計算高いヤツ…”とかたまに言われますけど…)
あんなものが有るおかげで「僕は勉強出来ない、バカなんだ」と劣等感に苛まれることになったんです。あれさえなけりゃ、いい大学に入って、大学教授にでもなれたかもしれないのに?…(バカ田大学とかね…)
そもそも私の思考回路は、あの数字の世界向きには出来てないのです。
世の中そんなに割り切れてたまるかってんですよ!
方程式とか言ったって、野球で勝利の…なんかいつも崩れちゃうじゃないですか!
ウソをつかないという数字にみんなダマされてるし、いつもそれが重ーくのしかかってるんです。”数字を上げろーっ!”とかね…
私は、”世の中からすべての数字が消えて全部0ゼロになっちゃえばいい…”とどんなに願ったことか!
そうです!ゼロの前ではどんな数字も消えちゃうんです。プラスもマイナスもね。
人生では、金も無い、知恵も無い、体力も無い、何の取柄も無い…など無いことを有難がる事はまずないですね。そういう人は役立たずの、人生の敗残者みたいに思われてしまいます。
だから物心付いた頃から、学校でも、家庭でも(そういう人にならないように)一歩一歩努力して、より進歩、より増進、より充実と…積み重ねていく事を奨励されます。
その事自体別に悪くないです。ただこうした言わば足し算式、掛け算式歩み方というものが、直線的にその目差す方向に導いてくれるものかどうかは分かりません。
これは又昔から文明人には”人類というものは、原始時代から現在に至って段々進歩して来て、未来に向けて進歩し続けて行くものなのだ…”という楽観論が頭に染み込んでいるようなところと関係しているのかもわかりません。
宗教、スピ界でもこのような霊的問題にアダプトされた楽観的進化論のようなものが根づいているようです。
一歩一歩霊的段階を登っていくような修行システムなどもそうですが、”信仰、探究をし続けていれば、より高く、より深くなっていくものなんだ”と知らず知らず思い込んで行くようです。(何かが約束されてるんでしょうか?)
このような自動的?エレベーター的な修行、信仰プロセスにハマると容易に脱線出来なくなります。
そんなことしたら、折角それまで積み上げてきたものを無くすことにもなり兼ねません。進歩のための信仰もグラつく…
それに、それまで費やしてきた時間と労力(とお金)は一体なんだったのか、って事も絡んでくるとますます難しくなります。
そして、”果たしてこれでいいんだろうか?”と感じられたら、また不如意の事態でも起きて、どうにも立ちいけなくなったら…
全てを無に、ゼロにしてしまう悪魔の使いが訪れるかも知れません。
その前ではこの世のどんな足し算式も、掛け算式も無効です!いや計算など成り立ちません!
そこではゼロという絶対数が支配しているのです。
この世であなたが学んできたもの、為してきたこと…皆無になります。(この世に戻ってきたら戻るかもわかりませんが)
そこで、あなたはあなたの無知、無能を知らされるだろう…しかし同時にあなたの限界も無い…という事も…
ゼロとは何も無いのではない、無限へと開かれているのです。
これが実に現界において自らの限界ある知恵、能力によって限りなく進歩して行くものだ…という信念に対する強烈なパラドックスです。
ゼロを知らない人間は無限など分かるはずがないのです。
頂上へ行くことにばかり捉われると、頭だけが胴体から離れて浮遊してしまうような事にもなりかねません。
その体は見えないところで無限に広がる基礎とつながっているのです。
”もう、もう自分は何者でも無かったのだ…”という事を受け入れるのはアッサリ自分の敗残を受け入れる事かも知れません。
けれど、勝つとか負けるとかいうのは、数の支配した現世の偏った論理に過ぎません。
誰とも勝負などする必要が有りません。(己とも!この勝負が一番キツそう…より頑張らないと…)
ただこの世界ではやはり実数というものは勿論ありますが、”ゼロ=無限”という手放しの法則にのっとることで、大部ラクに生きられるんじゃないでしょうか?
(私が所謂非二元原理主義にものすごく違和感を感じるのは、元来カオスの世界で育って来たからかもしれません。その割に”計算高いヤツ…”とかたまに言われますけど…)