五木寛之先生の「自分という奇蹟」(PHP文庫)という本を読んでいて、大変興味深いことを知りました。
それは、免疫の働きに関するものです。
私はどうも科学の方には疎いので知らなかったのですが、医学博士の多田富雄先生の平成五年に出された「免疫の意味論」という著書はかなり評判になったそうですね。
それによると、免疫の機能は、外から入って来る病原菌や有害物質などの生体に本来備わっている機能に適応しない異分子を排除するものである...とここまでは分かるのですが、そのためにその本来の自己と非自己の区別を認知、判断するというのです。
ということは、私たち、哲学や宗教、スピ的に“考える“人間は、本来の自己、真我とはこういうものであり、その表れを妨げるのは自我で、それはこういうものだ、と判断している訳ですが、それはすでに生体機能として認知、判断されている、ということらしいのです。
生体、身体的な働きを、単純に精神的な働きに結びつけることは出来ないでしょうが、そこには何らかの関連があるように思われます。
ともかく、思考によるそうした判断は皮相的なものだということは分かるのです。(私はその根本には意識の働きがある、と何度も言っておりますが、そのこととどう関係しているかどうかは分かりません)
何が真、本当のもので、何が偽り、幻想のようなものだとは、考える自分が躍起になるものですが、それは本来的なものかどうかは、身体が知っているということなのでしょう。
そして、この免疫の機能を司る大事な器官のひとつが、心臓の裏側にある“胸腺“らしいのです。
つまりハートの辺りということ...先のように身体器官と真我の認識は、直ぐに結びつかないものだし、ラマナ.マハルシも特定の身体の部位に限定出来ないものとしていましたが、私なんかは、どうも(具体的に胸腺に限定は出来ないにしても)その辺りに本来の自己的なものが顕わになったり、収斂されてゆく感じはあるのです。
何が真我、本当の自分かと考えるまでもなく...
五木先生は、この問題を“脳死“と関連づけて、問題提起をされているのです。
脳死は、死亡の判定になり得るものではないのではないか、と。
これはひいては、あまり明らかにされていない意識の領域のことも含め、自己の本来性とは何か、という問題につながるのではないでしょうか?
これまで、あまりにも自己存在を決定づけるものとして、頭脳偏重に傾きすぎていたのではないか? 頭で分かったらしいことよりも、身体的にも精神的にも、それを超えた働きがあるのではないか?
本来の自己とは何か?...とあまり思考を巡らせるまでもなく、胸に手を当ててみれば、何か安らぎと共に感じられて来るのではないでしょうか?...
それは、免疫の働きに関するものです。
私はどうも科学の方には疎いので知らなかったのですが、医学博士の多田富雄先生の平成五年に出された「免疫の意味論」という著書はかなり評判になったそうですね。
それによると、免疫の機能は、外から入って来る病原菌や有害物質などの生体に本来備わっている機能に適応しない異分子を排除するものである...とここまでは分かるのですが、そのためにその本来の自己と非自己の区別を認知、判断するというのです。
ということは、私たち、哲学や宗教、スピ的に“考える“人間は、本来の自己、真我とはこういうものであり、その表れを妨げるのは自我で、それはこういうものだ、と判断している訳ですが、それはすでに生体機能として認知、判断されている、ということらしいのです。
生体、身体的な働きを、単純に精神的な働きに結びつけることは出来ないでしょうが、そこには何らかの関連があるように思われます。
ともかく、思考によるそうした判断は皮相的なものだということは分かるのです。(私はその根本には意識の働きがある、と何度も言っておりますが、そのこととどう関係しているかどうかは分かりません)
何が真、本当のもので、何が偽り、幻想のようなものだとは、考える自分が躍起になるものですが、それは本来的なものかどうかは、身体が知っているということなのでしょう。
そして、この免疫の機能を司る大事な器官のひとつが、心臓の裏側にある“胸腺“らしいのです。
つまりハートの辺りということ...先のように身体器官と真我の認識は、直ぐに結びつかないものだし、ラマナ.マハルシも特定の身体の部位に限定出来ないものとしていましたが、私なんかは、どうも(具体的に胸腺に限定は出来ないにしても)その辺りに本来の自己的なものが顕わになったり、収斂されてゆく感じはあるのです。
何が真我、本当の自分かと考えるまでもなく...
五木先生は、この問題を“脳死“と関連づけて、問題提起をされているのです。
脳死は、死亡の判定になり得るものではないのではないか、と。
これはひいては、あまり明らかにされていない意識の領域のことも含め、自己の本来性とは何か、という問題につながるのではないでしょうか?
これまで、あまりにも自己存在を決定づけるものとして、頭脳偏重に傾きすぎていたのではないか? 頭で分かったらしいことよりも、身体的にも精神的にも、それを超えた働きがあるのではないか?
本来の自己とは何か?...とあまり思考を巡らせるまでもなく、胸に手を当ててみれば、何か安らぎと共に感じられて来るのではないでしょうか?...
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