Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

平将門 (9世紀後半~940年)出生地不明 1000年を超えてもなお残る怨念?

2017-08-17 16:03:39 | Weblog

東京の大手町は高層ビルが立ち並ぶ日本有数のオフィス街だが、その中にポツンと小さな緑地が見える。
一見すれば公園の様だが、よく見ると数本立てられた幟にこう書かれているのに気づくだろう。
「将門塚」---そう、そこは世紀の大怨霊と恐れられる、平将門の首が眠っていると云う場所なのだ。

平将門の出生年はハッキリしないが、やがて関東一帯を勢力下に収めた将門は、939年、朝廷に謀反の兵を挙げた。
世に言う「平将門の乱」である。彼は自ら「新皇」、つまり新しい天皇を僭称し、関東平野から新しい政権を打ち立てようと目論んだのだ。慌てた朝廷は、征伐軍を急ぎ関東に派遣し、1か月ほどの攻防の後、戦は朝廷側の勝利で終わった。将門は、最後の戦で討ち死にしてしまったのである。だが、後に神として崇められる将門の伝説は、ここからがスタートになる。

戦の後、将門の首は京の都へ運ばれ、見せしめの為に七条河原で晒し首にされた。
ところが、不思議なことにその首は何日経っても腐らない。
それどころか、夜な夜な怪光を発し、「体を返せ!もう一度一つになって戦を起こそうぞ!」と叫び続ける始末だ。
そして、ある日遂に、首は関東に向けて飛び去ってしまう。
ところが、さしもの将門の怨念も距離には勝てなかった。
首と胴体が出合う、後僅かと云うところで首は力尽き、地上に落下してしまう。
それを見た人々は祟りを恐れ、首が落ちた場所を首塚として祀り、現在に至ると謂う。

首塚は何か所か存在するが、最も有名なのが冒頭にあげた大手町の将門塚だ。
ちなみに、胴体は最終戦闘地となった幸島郡北山(現在の茨城県坂東市)の延命院にある胴塚に葬られたと謂う。
やがて、将門は強い霊力を持つ存在として扱われる様になる。
将門が神として祀られ始めたのは中世頃と見られている。
最初の江戸城を築いた室町時代の武将・太田道灌が、将門を祀った築土神社に拝礼しているので、この頃まで関東武士の間では、将門への尊崇が固定化していたと考えられるのだ。徳川家も、江戸開府後、将門を祀る神田明神を江戸総鎮守として篤く遇した。
ところが、明治時代になって権力の中心が天皇に戻ると、将門は再び朝敵として拝され、神田明神の祭神から外されてしまう。
これには氏子が猛反対したと言うが、天皇の権威の前にはどうにもならなかった。
だが、この頃から首塚の祟りが実しやかに語られる様になる。
最初の祟りは、大正時代に起こった。
関東大震災で倒壊した首塚の跡地に、大蔵省(現在の財務省)の庁舎を建てようとしたところ、関係者が次々と怪死してしまったのだ。その為、庁舎建造計画は立ち消えになった。

次は戦後のことだ。アメリカの占領軍が首塚を壊そうとしたところ、不可解な事故が続発。
その結果、計画中止を余儀なくされたと云うのである。
ある意味、将門の祟り話は時の権力のバロメーターになっている。
関東にある政権が強い時は鎮まっているが、弱くなるとたちまち祟りを成す。
死して尚、将門は「関東の守護神」であり続けているのだ。東京が繁栄する今、首塚に祟りの話はない。


(画像・平将門の肖像『神田明神蔵』、晒された将門の首図)

          

                                                 世界と日本の怪人物FILE
                                                         歴史上の偉人たちに隠された裏の顔

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 晩節を汚す 『三国志』 | トップ | 魚玄機 森鴎外の同名小説で... »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事