夫は日本にいたとき、高校で英会話を教えていたのと同時に、
子供や大人のグループにも英会話のレッスンをしていた。
その大人のグループの一人に、小川さんという90歳の男性がいた。
グループのほかのメンバーはみんな、高校で英語を教える先生たちだったが、
小川さんはただ英語が好きで仲間に加わっていた。
面長のおだやかな笑顔の紳士で、とても90歳には見えなかった。
漫画「ちびまるこちゃん」のおじいちゃんに、どことなく似ている。
小川さんは20年以上前に奥さんを亡くし、一人娘はチェコスロバキアで暮らしており、
広すぎる家に一人住まいをしていた。
夏の盛りの日に、夫は時々、小川さんの家の庭の草刈に行き、
私も何度か小川さんの家を訪ねたことがある。
80歳を過ぎてからも気軽に外国旅行をし、いろんなことに興味がある小川さんの話は、とてもおもしろかった。
「あまり年寄りと話したくないんだよねえ。ジジ臭いから」
と言ってからからと笑う。
年寄り、つったって自分よりも20も若いような人達だ。
エンジニアだったらしいというだけで、詳しいことをよく知らない。
戦争にも行っただろうけれど、苦労した話を一切しないから
彼の長い人生で何があったのか、その優しい顔の奥に覗い知ることはできない。
91歳の誕生日を、仲間の一人の家で祝ったことがある。
ちょうど夫の両親が来日していた時で、一緒に行った。
小川さんはその席で、みなさんへのお礼に、といって『荒城の月』を歌った。
♪ はるこうろうの はなのえん~ めぐるさかづき かげさして~ ♪
目を閉じて朗々と歌う小川さんの声は、よく通って、荒城の月ってこんなにきれいな歌だったのかと感動した。
「僕はね、死なないような気がするんですよ。
いや、いつか死ぬんですけども、もういつくたばっても構わないとずーっと前から思ってるんですけども、
その一方で、もし死ななかったら、という思いもあるんです。
おかしいでしょう?
昔からの友達はもう、一人も生きとらんですよ」
数年後、私たちが日本を離れることが決まったちょうどその頃、
小川さんは少し体調を崩して一人住まいが心もとなくなり、横浜のケアホームに移った。
ホームのロビーにグランドピアノがあり、小川さんはそれを弾きたくて、93歳にしてピアノを習い始めたという。
きっとホームの中でも人を楽しませる話をして、人気者なんだろうとみんなで話した。
いつか会いにいこうと言っている間に月日は過ぎ、それもかなわずハワイに来た。
ハワイに来てからも、小川さんの元気なエピソードが、グループの仲間たちからメールで届いていて、
帰国するときには必ず会いに行くつもりで、場所まで調べ上げていたのだったが、
私たちが帰国する1ヶ月前、小川さんが亡くなったという知らせを受けた。
小川さんが亡くなる2日前、小川さんは横浜から静岡県の自宅にいったん帰って来たのだという。
空き家になっていた家の中をくまなく点検し、
荷物の整理をし、掃き清めてから横浜のホームに戻り、2日後に眠るように息を引き取った。
小川さんらしい最後だと、誰もが言った。
確か「ちびまるこちゃん」のおじいちゃんも、亡くなる直前まで元気で、
突然旧友たちに会いにいくようになったと思ったら、ぽっくり亡くなってしまったはず。
顔だけじゃなくて、死に方まで似ているなんてなぁ。
こんなふうに生きたい、こんな自分になりたい、ということに一生懸命できたけれど、
ここ数年、時折だが、死ぬときのことを考えることがあり、
けれども漠然として、「自分の死」はなかなか形にならないのだった。
しかし、小川さんに出会い、私もきれいさっぱりと死にたいものだと思うようになった。
きれいさっぱりと死ぬということは、きれいさっぱりと生きていたからだろう。
やりたいことをどんどんやり、愚痴を言わず、1日1日を大切に楽しんで生きる。
そういうことなのかもしれない。
小川さんの訃報を聞いた時、なぜだか涙は出なかった。
あまりに生き生きと生きていて、煙のように亡くなったから、小川さんがもういないということが
実感としてわからない。
でも、どこかで「荒城の月」を聞いたら泣けてしまうだろうと思う。
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子供や大人のグループにも英会話のレッスンをしていた。
その大人のグループの一人に、小川さんという90歳の男性がいた。
グループのほかのメンバーはみんな、高校で英語を教える先生たちだったが、
小川さんはただ英語が好きで仲間に加わっていた。
面長のおだやかな笑顔の紳士で、とても90歳には見えなかった。
漫画「ちびまるこちゃん」のおじいちゃんに、どことなく似ている。
小川さんは20年以上前に奥さんを亡くし、一人娘はチェコスロバキアで暮らしており、
広すぎる家に一人住まいをしていた。
夏の盛りの日に、夫は時々、小川さんの家の庭の草刈に行き、
私も何度か小川さんの家を訪ねたことがある。
80歳を過ぎてからも気軽に外国旅行をし、いろんなことに興味がある小川さんの話は、とてもおもしろかった。
「あまり年寄りと話したくないんだよねえ。ジジ臭いから」
と言ってからからと笑う。
年寄り、つったって自分よりも20も若いような人達だ。
エンジニアだったらしいというだけで、詳しいことをよく知らない。
戦争にも行っただろうけれど、苦労した話を一切しないから
彼の長い人生で何があったのか、その優しい顔の奥に覗い知ることはできない。
91歳の誕生日を、仲間の一人の家で祝ったことがある。
ちょうど夫の両親が来日していた時で、一緒に行った。
小川さんはその席で、みなさんへのお礼に、といって『荒城の月』を歌った。
♪ はるこうろうの はなのえん~ めぐるさかづき かげさして~ ♪
目を閉じて朗々と歌う小川さんの声は、よく通って、荒城の月ってこんなにきれいな歌だったのかと感動した。
「僕はね、死なないような気がするんですよ。
いや、いつか死ぬんですけども、もういつくたばっても構わないとずーっと前から思ってるんですけども、
その一方で、もし死ななかったら、という思いもあるんです。
おかしいでしょう?
昔からの友達はもう、一人も生きとらんですよ」
数年後、私たちが日本を離れることが決まったちょうどその頃、
小川さんは少し体調を崩して一人住まいが心もとなくなり、横浜のケアホームに移った。
ホームのロビーにグランドピアノがあり、小川さんはそれを弾きたくて、93歳にしてピアノを習い始めたという。
きっとホームの中でも人を楽しませる話をして、人気者なんだろうとみんなで話した。
いつか会いにいこうと言っている間に月日は過ぎ、それもかなわずハワイに来た。
ハワイに来てからも、小川さんの元気なエピソードが、グループの仲間たちからメールで届いていて、
帰国するときには必ず会いに行くつもりで、場所まで調べ上げていたのだったが、
私たちが帰国する1ヶ月前、小川さんが亡くなったという知らせを受けた。
小川さんが亡くなる2日前、小川さんは横浜から静岡県の自宅にいったん帰って来たのだという。
空き家になっていた家の中をくまなく点検し、
荷物の整理をし、掃き清めてから横浜のホームに戻り、2日後に眠るように息を引き取った。
小川さんらしい最後だと、誰もが言った。
確か「ちびまるこちゃん」のおじいちゃんも、亡くなる直前まで元気で、
突然旧友たちに会いにいくようになったと思ったら、ぽっくり亡くなってしまったはず。
顔だけじゃなくて、死に方まで似ているなんてなぁ。
こんなふうに生きたい、こんな自分になりたい、ということに一生懸命できたけれど、
ここ数年、時折だが、死ぬときのことを考えることがあり、
けれども漠然として、「自分の死」はなかなか形にならないのだった。
しかし、小川さんに出会い、私もきれいさっぱりと死にたいものだと思うようになった。
きれいさっぱりと死ぬということは、きれいさっぱりと生きていたからだろう。
やりたいことをどんどんやり、愚痴を言わず、1日1日を大切に楽しんで生きる。
そういうことなのかもしれない。
小川さんの訃報を聞いた時、なぜだか涙は出なかった。
あまりに生き生きと生きていて、煙のように亡くなったから、小川さんがもういないということが
実感としてわからない。
でも、どこかで「荒城の月」を聞いたら泣けてしまうだろうと思う。
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