太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

ハイビスカス

2011-11-21 10:46:53 | ハワイの自然
ハワイといえばハイビスカス。

プルメリアも人気だけど、やっぱり王道はハイビスカスだろう。

その種類は、じつにたくさんあって、どれもこれも可愛いい。

これで良い香りがあったらもっといいのに、と思う。


可憐なピンク


ハワイ州の花は黄色いハイビスカス


堂々の赤


オレンジ


羽二重のようなゴージャスなのもある


私が一番好きな白


同じ白でも、これもすてき


これはまだまだほんの一部。スズランのように、下を向いて咲くハイビスカスもあって、これもすごく可愛いのだ。

どこで見たのか忘れてしまったけど・・



ハワイは1年中、いろんな花が咲いていて、年間を通して咲き続けるものも多いように思う。

4月に咲いていた花が、今でもしっかり花をつけているし、この時期は咲かないはずのプルメリアも、木によっては咲いている。

金木犀が香ると、ああもう秋だなあと思い、桜がつぼみをつければ、冬が終わるのだと思う日本の四季も捨てがたいけれど、

常にあでやかな花がある南国も、なかなかいいものだと思う。


注文の多い人達

2011-11-19 17:59:37 | 日記
まったく注文が多い人達なんだなあと思う場面を多くみる。

日本でも、カフェなどでは、注文したものに自分の好みをオーダーする人がいるかもしれないけど、ここではそれは当たり前のこと。


先日、ピザ屋に行ったら、前にいた人が細かく注文をつけていた。

その人が選んだのは、アーティチョークとモツァレラチーズとキノコのピザなのだが、

「アーティチョークは抜いて、モツァレラは他のチーズに変えられる?それからペペロニを少し入れて」


アーティチョークを抜いて、モツァレラを抜いたら、それはアーティチョークとモツァレラチーズとキノコのピザじゃなくなっちゃうじゃないか!

それなら、その隣りにあるペペロニのピザにしたらどうか。



と後ろで聞いていた私は思ったが、店員は嫌な顔をせずにキッチンにオーダーを出す。

メニューにあるものを、そのまま買ってゆく人ももちろんいるけれど、果たしてその割合はどのぐらいだろう?

レストランでも、玉ねぎは抜いて、ドレッシングはかけないで横に付けて、海老はちゃんと火を通して、オリーブは黒だけ入れて、等々。

自分ちのキッチンのように、言いたい放題である。



売っているものを、そのまま買うことに慣れていて、注文をつけることが申し訳ないように感じてしまう私には、

堂々と、欲しいものはこれだと主張できる人達がまぶしいように見えるし、

また、それを当然のように受け入れてくれる文化があることに驚く。

私が言えることといったら、お寿司はサビ抜きでとか、飲み物は食事の後で、ぐらいのものだ。



それは私が日本人というよりも、育った環境のせいかもしれなくて、

なぜなら故郷の静岡県のあたりは、品物を値切るとかいった自己主張をすることは良くないという文化があるのだと聞いたことがある。

一般に日本では、少なくとも私が子供の頃は、人と違うことをたしなめられるような風潮があったし、自己主張するよりは察してもらうほうが良いとされた。

余談だが、アメリカ人と話していて、ただの政治ニュースでも、

「じゃあシロはそのことについてどう思う?」と聞かれて、何の意見もなかったとドキっとすることがある。

自己主張=自分の意見をはっきり持つ、ということでもあるのだろう。





せっかく買うのだから、ほんとうに欲しいものを手に入れたほうが幸せだ、と私も思う。

それは人生全般にも言えることで、もう年だから、あれがこうだから、これがああだから仕方がないと理由をつけて、本当に欲しいわけではないものでいいにしてしまうとしたら、自分はそれだけの価値なのだと自分で決めているようなものだ。

謙虚と妥協は、まったく違うもの。



それに私だって人生においては、本当に欲しいものをリクエストしたからこそ、今があるんじゃないか。

そこで私も、レストランで本当に欲しいものに挑戦してみた。

注文したあと、「ライスは少なめにして、生の玉ねぎがあったらそれは入れないでください」と言ってみた。

「シュア!(がってん!)エニスィング エルス?(他になにかありますか?)」

「いえ、それだけ。いつもライスが多くて残しちゃうんですよねー」

つい、言い訳のようなことを言ってしまうのが気の弱いところ。



いつだったか、私が使っているバスタオルの端が少しほつれてきたのを夫の母が見て、

「4月に買ったばかりなのに、こんなの納得できないわ」

と言って、レシートもないのに買った店に行き、見事に新しいものに替えてきてくれた。


ここまでできるようになるまで、どのぐらいかかるだろう・・・(意外とすぐだったりして)



雨の合間に

2011-11-18 11:38:36 | 日記
雨の合間に、ウォーキングに行った。


今朝の虹

日本の梅雨を知っている私としては、雨が降ってもジメジメしないのが不思議でたまらない。

顔を撫でる風が爽やかで、きもちがいい。



夜に雨が降った翌朝は、この山肌をいくつもの滝がスルスルと伸びる

今日は山にも霞がかかっている。

私はこの山に落ちる滝を見るのが好きで、今日はいくつ見えるか数えてみたり、100メートルほど歩いて麓に近づき、滝の音を聞いたりする。

好きなわりには、いつも写真を撮るのを忘れてしまう。






緑の中をずっとずっと歩く。


ここはいつも、青々とした香りの風が吹いている


大地を這う根っこが力強いのだ


「そのうち雨がくるよ、天気予報でいってたぞ」

犬を連れたおじさんがそう言った。

「傘持ってるもんねー」

私が折りたたみを傘を見せると、「おっケイおっケイ!天気予報じゃ毎日同じこと言ってるよねー」

このおじさんは、会うと天気予報を教えてくれる。おじさんが言うとおり、天気予報じゃ毎日が雨と晴れで、見る意味がないのだが、それでもおじさんは毎日チェックしているようだ。

ハワイに来て、天気予報を気にすることがなくなった。

ここでは雨で涼しくても、たいてい海沿いやホノルルなどの島の南側ではカンカン照りで暑いと決まっている。



柴犬を連れた女性がやって来る。黒柴は近所にいるが、キツネ色の柴犬は初めてみた。思わず声をかけた。

「これ、柴犬ですよね?」

「そうそう、シバよ。このコは絶対に噛まないのよー」

その犬は、いかにも大事にされている穏やかな顔をしていた。気が小さく、女性の後ろに隠れて私を見た。

「どこでどうやって手に入れたんですか?」

「あのね、娘がロサンジェルスにいてね、そこで買って届けてくれたのよ」

「私、日本にいたとき、シバの雑種を飼っていたんですよ、だから可愛いなあって懐かしくなっちゃった」

「シバはいいわねー、ほんと、かわいいもの」


シバか、いいなあ、シバほしいなあ。ロサンジェルスかぁー。

実は夫の母が犬を欲しがっていて、ブリーダーに問い合わせているらしいのだが、それはマルチーズとヨークシャーを足したような感じの犬で、

私はどちらかというと苦手なタイプの犬なのだ。

リタイヤするまで動物は諦めていたところを、私が来たので、俄然欲しいモードになったようだ。

母には母の夢があり、私には私の思いがある。犬は外とガレージで飼いたい母と、家族と一緒に家の中で飼いたい私。柴犬を飼ったとしても、外で飼うならつまらないしとも思う。

どこを、どうすり合わせてゆくか・・・



ぱらぱらと雨が降る。学校のベルが鳴り、ほぼ満席のバスがのどかに通り過ぎる。

いろいろあるっちゃあるけど、今日も平和な一日が始まる。



クリスマスがやってくる

2011-11-18 11:00:11 | 絵とか、いろいろ
今月の24日はサンクスギビングで、その翌日の金曜日はブラック・フライデーと呼ばれる。

日本もクリスマスが終われば、クリスマスなどなかったかのごとく正月ムードに一新するが、アメリカとて同じで、クリスマス準備が佳境に入るのである。

ブラック・フライデーの「ブラック」とは、経済の黒字のことで、店が潤うという意味らしい。

この日はどの店も、早朝から夜中まで営業しているという。



でも、一般市民の間では、1年中クリスマス準備みたいなものである。

夫の両親など、家族や友人のための大量のプレゼントを1年中探しているといっても過言ではない。夏、買い物に行って「あら、これクリスマスに良さそう」と言っては、夫の母が何かを買うのを何度か見た。

クリスマスツリーの下に積み上げられるプレゼントは多いほど素敵で、一人にいくつものプレゼントが用意される。

ハワイにモミの木はないから、本土やカナダから取り寄せたりする。



画材店に行ったら、創作心を刺激するものがたくさん売っていた。

そこで、ガラスでできたオーナメントを4つ買ってきた。丸い球形のものを、大判焼きのように平たくしたような形で、裏・表両方に絵が描けるようになっている。


表(クリスマスツリーとプレゼントの山)

裏(部屋の中)


こんなふうに、それぞれ独立した絵だが、透かして見ても一つの絵になるようにしたつもり・・



表(雪景色)

裏(スノーマン)


表(ポインセチア←また描いてる)

裏(ベル)


表(サンタとトナカイ)
裏は写真撮り忘れたけど、月と夜空と星。



そしてこれはクリスマスカード(水彩)


クリスマス商品の充実ぶりは、どこも目を見張るものがある。

アメリカでは、♪もういくつ寝るとクリスマス~♪なのだろうなあ。




シェリル

2011-11-17 12:40:41 | 人生で出会った人々
夫が職場で、シェリルという盲目の女性のスピーチを聞いた話をしてくれた。


シェリルは40代後半で、シアトルに生まれた。彼女は生まれた時から目が見えなかった。

両親もきょうだいも、つらく当たることはなかったが、シェリルを世間から隠そうとした。「あなたは普通じゃないから」といつも言われて育った。

高校を出て、シェリルは生まれ故郷を離れるため、わざと遠い場所にある大学を選んだ。

家族は皆、「目が見えないあなたが、いったいどうやって生きていくっていうんだ?」と半ばあきれて反対したが、彼女の決意は固く、本当に一人で飛行機に乗り、シアトルを離れた。



大学の寮に入り、初めて家族から離れたシェリルは、人生で感じたことのない開放感に満たされた。

初めて、自分は目が見えないだけで、何でもできると思えた。実際、彼女は車の運転以外、何でも自分でできた。



或る時、ルームメイトが気を利かせて、シェリルのベッドカバーを変えてくれたことがあった。その晩、ベッドに入ったシェリルは、シーツの色が変わったことに気づき、

「赤いシーツに変えてくれた?」と聞いてルームメイトを驚かせた。

生まれつき盲目の場合、色というものがあるという概念だけ理解できると思ったら大間違いだ。

色にはエネルギーがあり、シェリルはそれを感じ取ることができる。

グリーンは見たことがないが、グリーンの持つエネルギーはわかる。



シェリルはスピーチしながら、ホワイトボードに文字まで書く。

赤や黒や青のマーカーを、触り、色を感じて使い分けてゆく。



故郷を離れて以来、あまりそこには戻っていないという。

「家族のことは愛しているけど、家族は私と話す時に、私を見下げている感じがするから・・」

今、彼女は自分の会社をもち、いくつかの社会組織に籍をおく多忙な身だ。



「目が見えないから何もできないと言った家族に感謝しているわ。私はそれを信じられなかったし、ほんとうにそうかどうか確かめなくちゃならなかったんだもの」



スピーチの最後に、シェリルはいたずらっぽく笑ってこう言った。

「もしあなたがたが失うものを選べるとしたら、どれを選ぶか想像してみて。視力か、聴力か、言葉か、手足の自由か」



本当に、自分で人生の設計をしてから生まれてくるとしたなら、何かを持たずに生まれてくるということは、すごく高度な挑戦だと思う。

自分が持っていないものにフォーカスするか、あるものにフォーカスするかで、全く違う人生模様になる。

それはすべてを持っている人にも言えることだろう。



もしシェリルの家族が、彼女を「普通じゃない子」として隠さなかったら、あるいはべったり甘やかしていたら、彼女はここまで来れただろうか。

「五体不満足」の著者は、両親にまったく普通の子として育てられることで、強さと聡明さを身に着けたように思う。

人が、すべてを設計して生まれてくることが真実かわからないけど、私はそれを信じたい。

私はこうしてああなるから、そのときにはこんなふうにしてね、と家族や友人になる存在に頼んで来るのだと、そうであったらいいと思う。