ある同僚に、最近、嫌な思いをさせられ続けたことがあった。
彼女に悪気はないが、私には辛いことだったので、そうして欲しくないのだということを、やんわりと伝えたつもりだった。
あることがあって、彼女は自分したことにに気づいて、私に謝ってきた。
私は「いいよ」と言った。
これで何もなかったことになってめでたし。
に、なれたらいいのに、なかなかなれないのが私。
どうでもいいようなことでウソをつく、躁鬱かというほど気分にムラがある、など、まともにつきあうと振り回されてしまい、
嫌いというわけではないけど、苦手な人。
そんなことがあって、さらに輪をかけて苦手になってしまった。
謝ってくれたことには感謝するけれど、表面は普通に、
でも今まで以上に、なるべくかかわらないようにしていた。
その彼女が、結婚することになった。
内々だけで簡単な式を挙げたそうで、仕事がオフの日にウェディングの写真を見せに職場に来た。
私は忙しいふりをして、その写真を見に行かなかった。
「私ってちっさい奴」
そんな自分に呆れつつ、お祝いしているふりをすることができなかった。
そのあとで、私は考えた。
自分の表面に棘を持っていたら、それがあちこち引っ掛かって仕方がない。
彼女と顔を合わせるのは週に2日程度だけれど、それでも、棘を持ち続けるのは疲れる。
好きな人と結婚することが、どんなに幸せなことか。
それがたとえ苦手な人でも、「良かったね」と言いたい気持ちぐらい、私にもある。
同じく、彼女が苦手という同僚が、
「嫌いな人に形だけのお祝いなんかしても、それは真心じゃないから、私は無視する」
と言った。
その人の言い分もよくわかるのだが、私はお祝いの品を用意して、彼女に渡した。
それは本音じゃない、と前述の同僚は言うだろう。
しかし、これが私の本音だ。
結婚することを知りつつ無視する自分になりたくない。
本音にこだわる友人が過去にいたけれど、本音はひとつじゃない。
本音を人に知られたくないなら、本音を言いたくないのが本音でいいと私は思う。
誰かに言われたことや、されたことを、大根を切るみたいにスパスパ切り捨てていけたらどんなにいいだろう。
切り捨てたつもりで、切り残してつながっているタクワンみたいに執念深い自分が情けない。
プレゼントを開けて、彼女はとても喜んでくれた。
私は、なりたい自分になるために、
表面に出た棘をひっこめて歩きやすくするために、
結局、自分のためにやっていることなのだけれど、誰かを苦手だと思う気持ちは変えようがなく、これが私なのだから、と思うのである。
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