麻生首相は漢字が読めないのか、読み違いをするのか分からないが、ミスが多いそうである。麻生首相の読み方を「あそう読み」といいい、「一般的な辞書の読み」と区別すると、以下のようになる
言葉 「あそう読み」 「一般的な読み」
「有無」 ゆうむ うむ
「措置」 しょち そち
「詳細」 ようさい しょうさい
「前場」 まえば ぜんば
「踏襲」 ふしゅう とうしゅう
「頻繁」 はんざつ ひんぱん
「未曾有」 みぞゆう みぞう
一方、麻生首相がアメリカでの生活経験が豊富で、英語が堪能であると言われている。英語ができる分、日本語ができないのかもしれないが、一国の首相としては、母国語ができないということは、国民にとっても恥ずかしい限りである。
私もほぼ毎日ブログを書いており、読者から日本語がなってない、誤字が多いという評価を受けないようにと思っている。そのためには、書いてからの推敲が必要なのでしょうが、書いては即掲載という自転車操業の繰り返しのため、ついつい文章を見直すことがないのが現状である。あまり、恥をさらさないよう、少しは見直しをして、極力誤字を少なくして、掲載していきたい。
この誤字の話題になると、私はいつも師である岡村重夫を思い出し、襟を正すことになる。私は少しオリジナリティがあると思った論文や著書については先生に送ることにし、叱られる可能性のある論文は送らないことにしていた。ただ、後者についてもどこかで読んでいて、色々と厳しいコメントを頂いたものである。前者の送らせていただいた論文には、必ず返事が返ってくる。その最初の文章が、「まずは、誤字がーーーにあり」で始まる。その後で、先生のコメントとなるが、ご返事であまり褒めて頂いた記憶はない。このようなご返事は、亡くなられる前まで続いたが、弟子にとっては、大変有難いご指導であった。先生にとっては、最後まで師であることの証として、こうしたことを貫かれていたのであろうと想像する。
私も多くの方々から献本されることが多い。最近は若い方々からの論文や著書も多くなっている。読むには読み、忘れることがない限りは、お礼状を出すことにしている。ただ、「誤字がーーーにあり」といったコメントを書ける若い皆さんへの師としての自覚は未だない。
そこで、今後は献本頂いた論文や著書はできる限りブログの中で紹介させてもらい、岡村流の誤字探しからの厳しいものではないが、ストレングスの視点からコメントもさせていただくことにしたい。
言葉 「あそう読み」 「一般的な読み」
「有無」 ゆうむ うむ
「措置」 しょち そち
「詳細」 ようさい しょうさい
「前場」 まえば ぜんば
「踏襲」 ふしゅう とうしゅう
「頻繁」 はんざつ ひんぱん
「未曾有」 みぞゆう みぞう
一方、麻生首相がアメリカでの生活経験が豊富で、英語が堪能であると言われている。英語ができる分、日本語ができないのかもしれないが、一国の首相としては、母国語ができないということは、国民にとっても恥ずかしい限りである。
私もほぼ毎日ブログを書いており、読者から日本語がなってない、誤字が多いという評価を受けないようにと思っている。そのためには、書いてからの推敲が必要なのでしょうが、書いては即掲載という自転車操業の繰り返しのため、ついつい文章を見直すことがないのが現状である。あまり、恥をさらさないよう、少しは見直しをして、極力誤字を少なくして、掲載していきたい。
この誤字の話題になると、私はいつも師である岡村重夫を思い出し、襟を正すことになる。私は少しオリジナリティがあると思った論文や著書については先生に送ることにし、叱られる可能性のある論文は送らないことにしていた。ただ、後者についてもどこかで読んでいて、色々と厳しいコメントを頂いたものである。前者の送らせていただいた論文には、必ず返事が返ってくる。その最初の文章が、「まずは、誤字がーーーにあり」で始まる。その後で、先生のコメントとなるが、ご返事であまり褒めて頂いた記憶はない。このようなご返事は、亡くなられる前まで続いたが、弟子にとっては、大変有難いご指導であった。先生にとっては、最後まで師であることの証として、こうしたことを貫かれていたのであろうと想像する。
私も多くの方々から献本されることが多い。最近は若い方々からの論文や著書も多くなっている。読むには読み、忘れることがない限りは、お礼状を出すことにしている。ただ、「誤字がーーーにあり」といったコメントを書ける若い皆さんへの師としての自覚は未だない。
そこで、今後は献本頂いた論文や著書はできる限りブログの中で紹介させてもらい、岡村流の誤字探しからの厳しいものではないが、ストレングスの視点からコメントもさせていただくことにしたい。