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最近古典は読むなというバカがはびこり出している 池田信夫&勝間和代

2010年05月13日 08時03分15秒 | 社会問題
古典は何のために読むか?

古典はそもそも稀なものなのである。

現象のすべては変化し、一度期もとどまらない。
今日いきている60億以上の人間が100年先にはごっそりと消えて、その中で現物であろうと記憶であろうと残るものはごくごく少数であり、300年後にはほぼ跡形も無い。

古典はそういうような中で残ってきているものである。
数百年前の形式が今日そのまま通用するはずはないが、たとえば古都を巡る旅というのは世界でも活発である。
返って現代のものを見に行くことは稀である。
世界遺産の殆どは過去の遺産であり、しかも数百年から数千年は過去の建造物である。
ではなぜそのようなものが人気があるのか?
こういう世界遺産は現代の建築とはそれほど共通性はない。
しかし、現代建築を携わる建築家などは必ずといってよいほど過去の建築に憧れるものである。
安藤忠雄は別かもしれないが、西洋の建築家たちがギリシャのパルテノンやローマやパリのパンテオンを見学しないものはいない。

そして西洋人たとへ三流の学者でも古典文献を疎かにすることはない。
池田信夫は最近の著作でアダム・スミスは読む必要はない、という。
現代に即さない考え方であるといい、それよりは参考書を読む方が利益になる。
同じようなことを勝間和代も言っている。

目先の利益で考えるとそうかもしれない。急ぎ足でなんでも早く目的地に到着する現代の学問社会においては、時間の掛かる古典籍を読まずにあんちょこの参考書、三流以下の著作者のものを読んだほうが近道であると池田信夫ならびに勝間和代あたりはいう。何もこのふたりだけが言っているわけではなく、いつの時代もそういう批評家まがいの人間が出てくる。

時代はそれぞれことなるものである。他の動物と違い人間は常に新しいものを求めてやまない、というよりもそういう風に作られており、せっかく手に入れた幸福をも破壊することに情熱を注ぐ。それゆえに新しいものを手に入れる度に世の中は変革の波にさらされる。パソコンや携帯もそうである。それらが出現したために世の中は急激な変化をもたらされた。新しい犯罪、新しい商売、新しい投機方法。一瞬にして莫大な富を得ることができ、一瞬にしてその富をなくし、一瞬にして莫大な借金をすることも可能になった。そして一瞬にして国家が滅ぶという経験もするようになったのである。

そういう経済状況を説明する古典文献はどこにも見当たらないであろう。
しかし、古典はそのようなためにあるのではない。


尽く書を信ずれば則ち書なきに如かず《故》孟子

いくら立派な書物でもすべてが真実でも真理でもない。それをまるまる信ずるくらいならばそんな本はないほうがましである。とも言われているように、鵜呑みにしようとしても事象が同じような出来事は中々起ころないものである。

古典を読むというのは思考方法の問題と感性研磨の問題である。
つまりより深く考えさせてくれるだけのものがあるから、それらは残るのであり、浅い意見や考えならどの時代も隣人とはなすようなものである。しかし、多くの人達は深い井戸を知らない間は浅い井戸しか判断がつかない。溜池しか見たことの無いものは、海の大きさが分からないようなものである。いま起こっている事象の深さや浅はかさは、古典を読むことによって検討がつくのである。

頭の良い人達は小手先で生きていくものである。口先三寸と頭だけでものごとを判断し、頭の悪い人を煙に巻くが、偉大な人物には必ず、心というものを操るものである。