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Lake Griffin
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『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』

本書を読んでいくつも感銘を受けたことがあるが、その第一はデジタル民主主義の指針を示したことにあるのではないかと思う。いわば、民主主義2.0とでも言うべきものだ。もちろん、台湾の人々の国民性(どのように、政府も含む他者とどのような関係を取り結ぶかということ)にもかかわるので、一般的な2.0とはならない可能性もあるのだが、特に、日本は民主主義だけではなく、もっと様々なことを台湾から学ばなければならないのではないだろうか。

たとえば、オープンデータについて、様々な試みがあるが、オードリーが日本から学んだという内閣府のRESASのシステムだが、うまく更新ができているのだろうか、あるいは、活用できているのだろうか。オードリーの「よいしょ」としかみえないのだが。

また、オープンガバメントについても、これまた、お上に(長いものに)すぐに巻かれる日本人の国民性とくらべて、いかがだろうか。やはり、ある種の危機感をもった台湾の人々との違いを垣間見る思いがする。

オードリーを年齢とかセクシャリティといった局面で理解しようとする日本の報道がみられるが、ポイントはそちらではないだろう。オードリーの学歴を超越した学びについての視点をこそ、理解すべきではないのか。いかに主体的に学ぶことが大事であるのか、教育する側の視点から脱却できない日本の初等教育からの伝統は、すでに、限界が見えているのではないだろうか。もちろん、教員養成もそうだ。たとえば、典型的には将棋の藤井くんが高校中退を選択したことが、個人の判断の問題と考えられているが、それは、義務教育でもない高校教育が乗り越えられない大きな溝だろう。オードリーは中学を中退したと言っているが(オフィシャルには、義務教育の中学の修了におそらくなっているだろうが、校長がおそらく裁量しているのだろう)、校長が個人的な中退を認めたのは、オードリーがインターネットを通じた自己学習を認定したからということなのだろうと思う。個人の能力や適性に応じて、柔軟に対応できることこそ大切なのであって、尊重すべきは、本人個人の判断であるということが、きわめて重要なのではないだろうか。

日本のだめなところは、まさに、形式主義、悪く言えば、無責任、そうしたシステムがおそらく、滅びの道なのだろうと思えた。

本書をよみながら、インターネットでキーワードを検索しながら理解を深めることができたが、学びのあり方も含めて、様々考えながら読むことができた。

最近の必読書ナンバーワンなのではないだろうか。

2021-03-14 17:18:48 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


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