伊東良徳の超乱読読書日記

雑食・雑読宣言:専門書からHな小説まで、手当たり次第。目標は年間300冊。2022年に続き2023年も目標達成!

金色の雨がふる

2006-09-24 11:01:04 | 小説
 現代の42歳のバツイチ女性が35歳の嘘つき・暴力男に入れ込んで破綻していくストーリーと明治時代の足尾銅山での女郎と坑夫の果たせぬ恋のストーリーを絡めた小説。

 2つのストーリーは最初と最後に現代に明治時代の女郎の幽霊が現れるところでシンクロするだけです。400頁あまりの小説で、現代に明治時代の幽霊が出てくるのは最初の数ページの後は408頁から。いつになったらこの同時進行が交わるのかなと思って読んでいると、めげます。何のために同時進行させているのか、私には理解できませんでした。

 明治時代の女郎の方は、澄んだ眼の腕のいい坑夫に恋し、実業家に身請けされた後、安楽な生活の中で坑夫との再会を先延ばしにするうちに坑夫が落盤で死に、駆けつけなかったことを後悔し鉱山街に戻って死に、幽霊となります。
 現代の話は、財布を拾われたことを契機に知り合った自称司法書士・バツイチ、実際は性犯罪の前科あり・離婚歴3回・日雇い労働者の暴力男と知り合った主人公が、男の強引な言い寄り方に惹かれて2度目のデートで肉体関係を持ちその関係にのめり込み、次第に男の化けの皮がはがれて行き、さらには男が主人公と同じマンションに住む知人を強姦し殺害する事態になっても、あの人は誤解されている、可哀想な人、あの人を理解できるのは私だけ、私ならあの人を変えられるという、典型的な別れられないDV(ドメスティック・バイオレンス=夫婦・恋人間での暴力)被害者の心理で逃避行に付いていき逮捕されます。
 私がとても理解できないのは、作者が主人公にその行動をさせ・正当化しようとしていると見えること。明治時代の女郎が坑夫の死を知ってすぐに再会しようとしなかったことを後悔して幽霊となること、主人公が小学校の頃いじめに遭いそれをかばってくれた子を後に見殺しにしたことへの後悔、そういうエピソードを並べた上、最後にはこのDV男を明治時代のまじめで一途だった坑夫の生まれ変わりだとしています。私には、明治時代の坑夫と現代のこのDV男に共通点を見ることはできません。最後の方のこの言いぐさには違和感しか感じませんでした。しかし、現代のストーリーに明治時代のエピソードを並行させる意味は、この構成からすると現代の主人公とこのDV男を正当化することだけにあったと読めます。主人公は最後に逮捕されながら自分の選んだ道を後悔しない様子です。主人公の友人は、DV男から逃げろ、関わり合いになるなと正しいアドヴァイスをするのですが、主人公はそれを無視してのめり込む道を選び、しかもそれを後悔しないというエンディングです。光文社が「新刊案内」でつけたキャッチが「ふた組の男女の運命的な出会いを通して描く後悔から願いへの物語」「私は逃げない」です。かなり確信的に、DV男には関わるなという世間の常識に反して、DV男から逃げるなというメッセージですね。
 私はDVの事件はやっていません(断言しておきます)が、DVに詳しい弁護士の意見では、あの人を理解できるのは自分だけ、あの人には私が必要という心理がDV被害の深みにはまっていく典型的パターンとのことです。そういう心理にはまり破綻する主人公を美化するような小説には、強い違和感を持ちました。


桐生典子 光文社 2006年5月25日発行
コメント
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