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日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

徳川秀忠誕生の井(浜松市)

2023-03-21 | 史跡

徳川秀忠は、徳川家康の三男として、遠江国(静岡県)浜松に生まれました。

幼名は長丸。のち竹千代。



母は側室の西郷局。



彼女は、浜松城に奉公に出て、家康の目に止まり、二代将軍の秀忠を生みました。
同母弟は、四男松平忠吉。長兄・松平信康は秀忠の生まれた年に自害、次兄の秀康は、秀吉の養子に出され、のちに結城秀康となったため、また母親が三河の名家であるということもあり、秀忠が、実質的な世子となりました。

天正18年(1590年)には上洛し、秀吉の養女で、織田信雄の娘・小姫(春昌院)と祝言を挙げましたが、秀吉と信雄が仲違いして、信雄が除封されたことにより離縁となります。そして、文禄4年(1595年)9月、秀吉養女のお江と再婚することになります。

その秀忠が産湯をつかったと伝えられる井戸跡の徳川秀忠誕生の井戸が浜松市常盤町にあります。
(浜松城の二の丸という説もあります)

当時、誕生井戸は現在の場所から約50メートルほど西の所にあったそうです。
昔その一帯は旧城下で、家康の浜松城にいた頃は下屋敷が構えられ、誕生屋敷と呼ばれていたと伝えられています。

また、常盤町の新川には、かつて誕生橋と呼ばれた橋があります。





井戸があった位置を示すように、石で井の字が組まれています。



(家康の散歩道の資料参照)

アクセス:遠州鉄道 遠州病院前駅下車すぐ


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本多忠勝の屋敷跡(浜松市)

2023-02-26 | 史跡

分器稲荷神社付近には、本多忠勝の屋敷跡の標柱がたっています。







本多忠勝
酒井忠次,榊原康政,井伊直政とともに徳川四天王と呼ばれ,徳川氏譜代家臣団の最上層を形成した。父は忠高,母は植村新六郎氏義の女。幼名鍋之助,通称平八郎。1560年(永禄3)尾張大高城の兵糧入れが初陣。武功により頭角をあらわし,66年寄騎(よりき)50人余を付属された。以後武田信玄との諸戦で勇戦し,信玄の近習小杉左近はその武勇を〈家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八〉とうたったという。 (コトバンクより)


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冠者殿社

2022-04-26 | 史跡

京都の冠者殿社は、四条通の八坂神社御旅所の横に建つ八坂神社の境内摂社で、素戔嗚尊の荒魂が祀られています。
また、誓文払い」の社として有名です。
(誓文払いとは、商売上の駆け引きで一年についた嘘の罪を払ってもらうという商店の安売り、すなわちセールのこと。)





一方、源頼朝の命で源義経を襲撃した土佐坊昌俊の霊を祀ったとも伝わっています。

土佐坊は熊野詣のために上京したと偽り、堀川邸を訪ねましたが、義経と弁慶に上洛の目的を怪しまれたため、義経を暗殺する意思はないという旨を誓紙に書いて神に捧げます。

誓文を書いた土佐坊を義経は宿舎に返しました。
その後、土佐坊は堀川館を急襲したものの襲撃に失敗し、土佐坊は捕らえられ、義経の前に引き出されました。

義経は「わが主人の命を重んじて、誓文をしたためてまでこの義経を狙うとは忠義なもの。命が惜しければ鎌倉に返してやる。」と言いましたが、土佐坊は「この命は鎌倉殿に捧げたもの。即刻、首をはねていただきたい。」と答え、土佐坊、息子、郎党の三人が六条河原で首をはねられました。

土佐坊は死に際に「今後は忠義だてのために偽りの誓いをした者を救ってやる」という誓文返しの願をかけ、神になったといわれています。

また、祇園や先斗町の遊女たちは、日頃お客についている嘘を帳消しにするためにお参りしたといいます。
(「義経と平家の京都」参照)


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俵藤太のムカデ退治伝説(2)雲住寺

2022-03-26 | 史跡

龍王宮秀郷社の隣にある雲住寺は、俵藤太(藤原秀郷) の追善供養のために15代目の子孫により建立された寺で、この寺は瀬田の唐橋の守り寺にもなっています。



 

百足供養堂



毎年10月の第3日曜に俵藤太と百足供養会が催されるそうです。

 
 
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泉岳寺(7)堀部安兵衛の墓

2022-02-07 | 史跡

泉岳寺の大石主税の墓の横に堀部安兵衛の墓があります。



討ち入り後、赤穂浪士たちは4つの大名家の屋敷にお預けとなり、堀部安兵衛は、大石主税らとともに、伊予松山藩主・松平定直の江戸屋敷へ預けられました。

元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられ、屋敷にて松平家家臣・荒川十大夫の介錯により切腹。享年34。
主君・長矩と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られました。



法名は刃雲輝剣信士。



忠臣蔵:堀部弥兵衛と堀部安兵衛 歌川国貞作


堀部安兵衛
赤穂浪士の一人。名は武庸(たけつね)。実父中山弥次衛門は越後(えちご)新発田(しばた)藩溝口家に仕えていたが浪人となる。父の死後江戸に出て儒学や剣を学ぶうち,伯父・甥(おい)の義盟を結んだ菅野六左衛門が高田馬場(たかだのばば)で決闘したのを助太刀して勇名をあげ,望まれて赤穂藩士堀部弥兵衛の養子となった。藩主浅野長矩の死後,高田郡兵衛,奥田孫太夫らと江戸急進派の中心となり,1702年吉良邸討入りに参加し,翌年伊予(いよ)松山藩主松平家江戸屋敷で切腹。大石良雄らとの書簡などを編集した《堀部武庸筆記》は赤穂事件の貴重な史料である。 (コトバンクより)

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