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日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

井伊谷宮 宗良親王の墓

2012-01-04 | 井伊家
龍潭寺に隣接する井伊谷宮は、1872年(明治5年)井伊家によって建てられた神社で、南北朝の動乱期に、井伊家のもとに身を寄せ、北朝方と戦った後醍醐天皇の皇子の宗良親王を祀ってあります。本殿の背後に宗良親王の墓と伝えられる塚がありますが、宗良親王の晩年は不明な点が多く、終焉の地については諸説あります。

宗良親王の墓所の入り口



墓所は、立入禁止になっていて見ることはできません。



宗良親王に従った信濃国の知久監物源頼人が奉納した宝筐院塔があるそうです。
龍潭寺から、この墓地を通り過ぎて、井伊谷宮に通り抜けることができます。







慈母観音菩石



母親が子どもを抱いている姿に見えます。



宗良親王(むねよししんのう/むねながしんのう、1311年(応長元年) - 1385年9月14日(元中2年/至徳2年8月10日)? )は、南北朝時代・室町時代の皇族で後醍醐天皇の皇子で、信濃の宮や大草の宮・幸坂の宮(庇護者となった香坂氏に由来)と呼ばれた。母は二条為子。
歌道の家であった二条家出身の母から生まれたことにより、幼い頃から和歌に親しんでいた。妙法院に入り1325年(正中2年)妙法院門跡を継承。続いて1330年(元徳2年)には天台座主に任じられるも、元弘の変により捕らえられ讃岐国に流罪となる。
父後醍醐の鎌倉幕府倒幕が成功し、建武の新政が開始されると再び天台座主となるが、建武の新政が崩壊し、南北朝の対立が本格化すると還俗して宗良を名乗り、大和国吉野(奈良県)の南朝方として活躍をするようになる。1338年(暦応元年/延元3年)には、義良親王とともに北畠親房に奉じられて伊勢国大湊(三重県伊勢市)より陸奥国府(福島県伊達郡霊山町)へ渡ろうとするが、座礁により遠江国(静岡県西部)に漂着し、井伊谷の豪族井伊道政のもとに身を寄せる。
1340年(暦応3年、興国元年)に足利方の高師泰・仁木義長らに攻められて井伊谷城が落城した後、越後国(新潟県)の寺泊(現、新潟県長岡市)や、越中国(富山県の放生津(現、富山県射水市)などに滞在した後、1344年(興国5年/康永3年)に信濃国(長野県)伊那郡の豪族香坂高宗(滋野氏支流望月氏の一族)に招かれ、大河原(現、長野県大鹿村)に入った。宗良はこの地を文中二年(1373年)までの約三十年間にわたり拠点とし、「信濃宮」と呼ばれるようになる。その間に上野国や武蔵国にも出陣し、駿河国(静岡県)や甲斐国(山梨県)にも足を運んだことが『新葉和歌集』や私家集である『李花集』の内容から判明している。
晩年については、新葉和歌集の選集がほぼ終わったと思われる1378年(天授4年)に大河原に一度戻った事が判明しているが、1381年(弘和元年/永徳元年)に吉野に戻って新葉和歌集を長慶天皇に奉覧して以後は、確たる記録が残されていない。
終焉場所については、1550年(天文19年)に作成された京都醍醐寺所蔵の「大草の宮の御哥」と題された古文書の記述から、長らく拠点であった信濃国大河原で薨去したとする説が有力とされている(東京大学史料編纂所が醍醐寺文書から抜粋した「三宝院文書」)。一方、「南山巡狩録」や「南朝紹運録」では、1385年(元中2年/至徳2年)に遠江国井伊城で薨去したと記されている。また昭和15年に長野県旧長谷村常福寺にある宗良親王尊像の胎内から発見された文書から、1385年に大河原から諏訪に向かう途中の峠道で討ち死したとする入野谷長谷説がある。長谷村では、明治の中頃に十六弁菊花の紋章と宗良親王の法名である尊澄法親王の文字が刻まれた無縫塔が発見されており、胎内文書はかつてこの地にあった天台宗の古刹大徳王寺の住職尊仁が江戸時代に書き残したものされている。その他に浪合説(子の尹良親王終焉の地)、河内山田説、さらには越後や越中で薨去したとの諸説がある。柳原紀光の「続史愚抄」には、南朝紹運録や入野谷長谷説と同じ1385年(元中2年)8月に没したと記されており、花山院長親の「耕雲百首」にある「故信州大王」との記述から、1389年(元中6年/康応元年)以前に没したことがわかる。長野県大鹿村大河原釜沢にある宝篋印塔は宗良の墓と伝えられており、静岡県の井伊谷宮も宗良親王を祀っており、墳墓が残されている。(Wikipediaより)

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浜松の龍潭寺 その弐

2011-12-30 | 井伊家
続いて、龍潭寺の墓地と庭園です。

井伊家歴代墓 元祖共保公より二十四代直政公までの墓地





左から、直政、直政の母、父の墓


庭園







小堀遠州は、滋賀・長浜の出身で、「遠州流」の茶道を興し、二条城二の丸庭園などの作庭をしました。また、駿府城の作事奉行を井伊家・25代直孝とともに勤めたことが縁で、当寺の作庭を依頼したといわれています。

境内では、ツツジやアジサイに代わり、ガクアジサイがあちらこちらで咲き始めていました。
(訪問したのは6月です。)











撮影 2011.6

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浜松の龍潭寺 その壱

2011-12-27 | 井伊家
井伊家、後醍醐天皇の皇子・宗良親王の菩提寺である龍潭寺は、古くは地蔵寺といい、天平5年(733)に行基によって開創されたと伝わっています。
井伊家は藤原鎌足の後裔で、藤原共資公(元祖共保公の父)の時、遠江国守として遠州村櫛に下り、共保公より井伊谷の地に移り、約五百年間にわたり、井伊谷の庄を治めました。

保元の乱では源義朝に、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代では御醍醐天皇皇子・宗良親王を迎え北朝と戦いました。
室町時代は今川氏に仕え、桶狭間の戦いで戦死をした井伊家22代・直盛の戒名「龍潭寺殿天運道鑑大居士」をとり龍潭寺と寺号を変えました。

戦国時代になると、24代・直政が浜松城主・徳川家康に仕え、「井伊の赤鬼」と呼ばれるようなり、やがて徳川四天王の筆頭となり、彦根に出世。

幕末には、36代・大老井伊直弼が開国の偉業を成し遂げました。
こうした元祖・井伊共保公より40代に到る祖霊を祀る井伊家の菩提寺が龍潭寺です。
境内には江戸時代に建立された県指定文化財の本堂、開山堂、総門、庫裏、井伊家霊屋などの建物が立ち並び、国指定名勝の小堀遠州作「龍潭寺庭園」は、石組みを配した築山と心字池からなる池泉鑑賞式庭園となっています。

山門





井伊家発祥の地の石碑





庫裡



              
開山堂



井伊家のお籠



左甚五郎の龍の彫刻



井伊家霊屋



元祖・共保公、22代・直盛公、24代・直政公の木像が安置されています。



元祖・井伊共保公像



22代・井伊直盛公像



24代・井伊直政公像



井伊家24代。永禄4年2月9日井伊領内祝田で誕生。15歳の時浜松城で徳川家康公に仕え、関ケ原の戦いでの武勲により、彦根へ。彦根藩江戸時代三百年の基を築き、42歳、慶長7年2月1日逝去。龍潭寺に葬れました。

次は墓地と庭園です。

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井伊氏祖・共保公出生の井

2011-12-24 | 井伊家
奥浜名湖の北にある浜松市北区引佐町井伊谷。
井伊谷は、かつて井伊家が治めた土地です。
井伊といえば、家康幕下の名将・直政や幕末の大老・直弼を輩出した家として知られています。

遠州の名刹・龍潭寺門前の田んぼの一角にあるのが「共保出生の井戸」です。



白壁の塀に囲まれているので、車に乗っていてもすぐにわかります。

共保公とは、平安時代から戦国時代までの六百年にわたり当地方を治めた井伊氏の元祖です。共保は、藤原冬嗣6世孫で、遠江国主・藤原共資の子に当たりますが、この地には、次のような伝説が残されています。

井伊氏祖 共保公出生の井

 この井戸は井伊家の始祖井伊共保公出生の井戸として往古から伝承されています。一條天皇の寛弘年間藤原鎌足十二代の子孫 備中守共資公が遠江介として村櫛へ下向、元旦 領内平安祈願のため渭伊神社へ参拝されました。たまたま神域の当井戸の傍に嬰児を見付け抱上げつくづく見れば、俊秀麗顔、常人にあらずまことに神授の神童なることを覚り己が子と致しました。後年共資公が自身の一女と婚せしめ、郷名にちなみ名を井伊共保と称し当地方の宰主となり家紋をこの聖井を型取り、井桁に橘を以ってし、名門井伊氏の基を開いたと謂われます。
 又、史説として、天日槍命(あめのひほこのみこと)三十二代三宅好用、醍醐天皇の延喜年間奈良より荘司として着任、この井戸の傍に居を構え、それより三代目の井端谷(いはたや)篤茂の娘が共資公に嫁し共保を生誕したとも伝えられます。三宅の家紋は橘であります。
(浜松市教育委員会)






碑文は、第39代当主・井伊直愛氏(井伊直弼の曾孫)の撰述。




共保公出生の井戸



周りはこんなのどかな風景です。



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彦根の長久寺

2011-09-16 | 井伊家
彦根の長久寺は、1041年(長久2年)後三条天皇の皇后の祈願所として創建されました。





創建時より寺勢は大いに振るい、比叡山延暦寺を凌ぐほどの勢力でしたが、1510年(永平7年)に、六角・京極両氏の兵火により大打撃を受け、さらに1571年(元亀2年)、信長の比叡山焼き討ちの際、堂塔伽藍を焼き尽くされてしまいました。

その後、彦根藩主となった井伊氏は後水尾天皇の勅を奉じて、普門山常心院の山号院号を賜り、徳川将軍家の助力も受けながら、長久寺の再建に努めました。
本堂は井伊家家老の庵原主税助朝真の寄進により再建されました。

寺宝として「番町皿屋敷」のお菊が所有していたと伝わる6枚の皿と、お菊慰霊供養寄進帳を所蔵しています。 お皿の常設展示はされていません。事前に電話予約が必要だそうです。





境内には、源頼朝手植えと伝わる梅があります。





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