清凉寺のすぐ隣に緑に囲まれた龍潭寺があります。
龍潭寺は、元来、浜松の井伊谷にある井伊家の菩提寺ですが、井伊直政が佐和山城主になったのを機に、井伊谷5世・昊天(こうてん)が新たに佐和山にも創建しました。
お寺の入り口を入るとすぐに石田三成の銅像があります。
当寺は、1617年の開山後、近郊に多くの末寺をかかえ、学僧が学ぶ大道場でした。特に、園頭科(おんずか)という造園科からは、たくさんの造園家を輩出しました。
佐和山城の城門を移築したといわれる山門
方丈には、森川許六(もりかわきょりょく)によって描かれた襖絵が残っています。森川許六は、彦根藩主で、狩野探幽の弟に絵を学び、松尾芭蕉の門人を代表する蕉門十哲の1人に数えられる人物です。
書院東庭は、開祖の昊天と小堀遠州の合作とされる池泉鑑賞式庭園で、蓬莱池泉庭と呼ばれ、佐和山を借景にした庭です。また、方丈南庭は、ふだらくの庭と呼ばれ、白砂を敷き、補陀落山を表現した枯山水の庭園になっています。
裏山の墓地には、彦根御前とうたわれた井伊直弼の母の墓や、直弼の側室であった里和の文塚など、多くの史跡が残っています。
これで、浜松と彦根の両方の龍潭寺にお参りができました。
龍潭寺は、元来、浜松の井伊谷にある井伊家の菩提寺ですが、井伊直政が佐和山城主になったのを機に、井伊谷5世・昊天(こうてん)が新たに佐和山にも創建しました。
お寺の入り口を入るとすぐに石田三成の銅像があります。
当寺は、1617年の開山後、近郊に多くの末寺をかかえ、学僧が学ぶ大道場でした。特に、園頭科(おんずか)という造園科からは、たくさんの造園家を輩出しました。
佐和山城の城門を移築したといわれる山門
方丈には、森川許六(もりかわきょりょく)によって描かれた襖絵が残っています。森川許六は、彦根藩主で、狩野探幽の弟に絵を学び、松尾芭蕉の門人を代表する蕉門十哲の1人に数えられる人物です。
書院東庭は、開祖の昊天と小堀遠州の合作とされる池泉鑑賞式庭園で、蓬莱池泉庭と呼ばれ、佐和山を借景にした庭です。また、方丈南庭は、ふだらくの庭と呼ばれ、白砂を敷き、補陀落山を表現した枯山水の庭園になっています。
裏山の墓地には、彦根御前とうたわれた井伊直弼の母の墓や、直弼の側室であった里和の文塚など、多くの史跡が残っています。
これで、浜松と彦根の両方の龍潭寺にお参りができました。
清凉寺は、佐和山の麓にある曹洞宗の寺院です。
1602年、井伊直政の死去に伴い、直孝が墓所として創建しました。
本堂裏の高台には歴代藩主の宝篋印塔があり、寺宝に歴代藩主画像などがあります。
境内が石田三成の家老・島左近の屋敷跡で、本堂前のイヌグス(タブ)の老木は、島左近邸のものとされています。
清凉寺には佐和山に関する七不思議が伝わっていて、この木は夜になると女に化けるといいます。
その他には、
「左近南天」左近が大事にしていた木に触ると腹痛を起こすといいます。
「唸り門」清凉寺の表門は、佐和山城の城門を移したもので、大晦日になると風もないのに、唸り声がしたり、泣き声がしたりうなったりしたといいます。
「壁の月」三成の屋敷の木材が使われたものと言わる方丈の間の一部は、壁に月が浮き出てきて、何度塗り替えても消えなかったといいます。
「小姓の出現」書院の手洗い石は、佐和山城内にあったものだと言われ、暗闇から若い小姓が現れて水を汲んでくれるといいます。
「血の池」墓地の一角にある池で、佐和山落城の際、生首を洗った池と言われ、夕刻になると水面に血みどろの女性の顔が浮かび上がるといいます。
「さらしの井戸」 左近が茶の湯に使用した井戸で、この水に汚れ物をつけておくと、真っ白になるといいます。
「佐和山の黒雲」井伊家の家臣が、彦根城で戦利品の虫干しをしていると、佐和山の方から黒雲が立ち込め、強風で戦利品が持ち去られたといいます。
1602年、井伊直政の死去に伴い、直孝が墓所として創建しました。
本堂裏の高台には歴代藩主の宝篋印塔があり、寺宝に歴代藩主画像などがあります。
境内が石田三成の家老・島左近の屋敷跡で、本堂前のイヌグス(タブ)の老木は、島左近邸のものとされています。
清凉寺には佐和山に関する七不思議が伝わっていて、この木は夜になると女に化けるといいます。
その他には、
「左近南天」左近が大事にしていた木に触ると腹痛を起こすといいます。
「唸り門」清凉寺の表門は、佐和山城の城門を移したもので、大晦日になると風もないのに、唸り声がしたり、泣き声がしたりうなったりしたといいます。
「壁の月」三成の屋敷の木材が使われたものと言わる方丈の間の一部は、壁に月が浮き出てきて、何度塗り替えても消えなかったといいます。
「小姓の出現」書院の手洗い石は、佐和山城内にあったものだと言われ、暗闇から若い小姓が現れて水を汲んでくれるといいます。
「血の池」墓地の一角にある池で、佐和山落城の際、生首を洗った池と言われ、夕刻になると水面に血みどろの女性の顔が浮かび上がるといいます。
「さらしの井戸」 左近が茶の湯に使用した井戸で、この水に汚れ物をつけておくと、真っ白になるといいます。
「佐和山の黒雲」井伊家の家臣が、彦根城で戦利品の虫干しをしていると、佐和山の方から黒雲が立ち込め、強風で戦利品が持ち去られたといいます。
彦根城跡から夢京橋キャッスルロードに出ると、通りの真ん中に浄土宗の宗安寺があります。
井伊直政の正室・東梅院の父母の菩提を弔うため上野国箕輪に建立された安国寺を前身とします。井伊直政が高崎城主となると安国寺は移転。1601年佐和山入城に伴い、佐和山城下へ移され、宗安寺と改名。
1603年、彦根城築城の際、現在の地へ移転されました。
元禄の大火で、「赤門」と呼ばれる朱塗りの佐和山城の大手門を移築した表門が唯一焼け残り、現在の本堂は、江戸時代中期に長浜城付属御殿を移築したものです。
本尊の阿弥陀如来立像は、大坂夏の陣の時、淀君の念持仏とされる仏像を持ち帰ったもので、胎内納経の奥書から文永7年(1270年)の作といわれています。
当寺は、朝鮮通信使節団高官の彦根での宿泊所であったことでも知られています。
総本山を京都の知恩院、直接の本山を京都百萬遍知恩寺とする浄土宗の寺院で、徳川家が浄土宗であったことから、江戸時代は彦根藩における徳川家康公位牌奉安所とされました。
墓所には大坂夏の陣で、井伊直孝勢に討ち取られた豊臣家の家臣・木村重成の首塚があります。
木村 重成(きむら しげなり)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。一説には木村重茲(しげこれ)の子とも言われている。母、宮内卿局(一説には右京大夫局とも)は豊臣秀頼の乳母となり、重成自身も幼少から秀頼の小姓として育ち、秀頼にとってはほとんど唯一の幼馴染であった。
重成は秀頼の信頼が厚く、元服すると豊臣家の重臣となり重要な会議などにも出席するようになる。豊臣家と徳川家康との関係が険悪になると、大野治長・渡辺糺らと共に開戦を主張し、片桐且元を大坂城から追い出すのに一役買っている。慶長20年(1615年)1月7日、大蔵卿局の姪の青柳を妻に迎える。同年5月、大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として長宗我部盛親とともに八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣し、八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開し、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した(八尾・若江の戦い)。藤堂軍の右翼を破った重成は、散開していた兵を収拾し、昼食を取らせると敵の来襲を待ち構えた。また、婚姻して5ヶ月の青柳と別れの盃を交わした。
この時、家臣が「兵は疲れており再度戦えば敗北は必至」と諌めたが、重成は「この程度の勝利はものの数ではない」と一蹴し、戦闘に入った。重成は家臣達の諌めも聞かず、敵陣へと突撃を開始。しかし井伊軍と激戦の末、戦死する。享年23[要出典]。徳川家家臣の安藤重勝が井伊家家臣より首を譲り受け、家康の首実検に供している。その首級が家康に届けられると頭髪に香が焚きこめてあったのでその覚悟を感嘆させたという逸話がのこっている。(Wikipediaより抜粋)
白砂を敷き詰めた庭園
街中にあるお寺ですので、食事や買い物がてらに拝観できます。
井伊直政の正室・東梅院の父母の菩提を弔うため上野国箕輪に建立された安国寺を前身とします。井伊直政が高崎城主となると安国寺は移転。1601年佐和山入城に伴い、佐和山城下へ移され、宗安寺と改名。
1603年、彦根城築城の際、現在の地へ移転されました。
元禄の大火で、「赤門」と呼ばれる朱塗りの佐和山城の大手門を移築した表門が唯一焼け残り、現在の本堂は、江戸時代中期に長浜城付属御殿を移築したものです。
本尊の阿弥陀如来立像は、大坂夏の陣の時、淀君の念持仏とされる仏像を持ち帰ったもので、胎内納経の奥書から文永7年(1270年)の作といわれています。
当寺は、朝鮮通信使節団高官の彦根での宿泊所であったことでも知られています。
総本山を京都の知恩院、直接の本山を京都百萬遍知恩寺とする浄土宗の寺院で、徳川家が浄土宗であったことから、江戸時代は彦根藩における徳川家康公位牌奉安所とされました。
墓所には大坂夏の陣で、井伊直孝勢に討ち取られた豊臣家の家臣・木村重成の首塚があります。
木村 重成(きむら しげなり)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。一説には木村重茲(しげこれ)の子とも言われている。母、宮内卿局(一説には右京大夫局とも)は豊臣秀頼の乳母となり、重成自身も幼少から秀頼の小姓として育ち、秀頼にとってはほとんど唯一の幼馴染であった。
重成は秀頼の信頼が厚く、元服すると豊臣家の重臣となり重要な会議などにも出席するようになる。豊臣家と徳川家康との関係が険悪になると、大野治長・渡辺糺らと共に開戦を主張し、片桐且元を大坂城から追い出すのに一役買っている。慶長20年(1615年)1月7日、大蔵卿局の姪の青柳を妻に迎える。同年5月、大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として長宗我部盛親とともに八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣し、八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開し、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した(八尾・若江の戦い)。藤堂軍の右翼を破った重成は、散開していた兵を収拾し、昼食を取らせると敵の来襲を待ち構えた。また、婚姻して5ヶ月の青柳と別れの盃を交わした。
この時、家臣が「兵は疲れており再度戦えば敗北は必至」と諌めたが、重成は「この程度の勝利はものの数ではない」と一蹴し、戦闘に入った。重成は家臣達の諌めも聞かず、敵陣へと突撃を開始。しかし井伊軍と激戦の末、戦死する。享年23[要出典]。徳川家家臣の安藤重勝が井伊家家臣より首を譲り受け、家康の首実検に供している。その首級が家康に届けられると頭髪に香が焚きこめてあったのでその覚悟を感嘆させたという逸話がのこっている。(Wikipediaより抜粋)
白砂を敷き詰めた庭園
街中にあるお寺ですので、食事や買い物がてらに拝観できます。