湖北のさらに北に聳え立つのが、己高山(こだかみやま)だ。
琵琶湖の反対側にある、比叡山の鬼門にあたるため、
古来、山岳仏教の聖地として、伽藍ひしめく一大修行道場があったのである。
今は、樹木の間の草原に礎石が点在しているのみだが、その規模の大きさが偲ばれる。
幾度かの災害で、その都度、麓へ降ろされた仏像が、
この地方の寺院、あるいはお堂に祀られ散在している訳だ。
山の麓の古びた社の広い境内の奥に、二棟の収蔵庫が並び建つ。「己高閣」「世代閣」だ。
おびただしい仏像のなかで、ひときわ背の高い十一面観音が、
井上靖が小説のなかで「村のおかみさんのような」と書かれた、その観音である。
いかにも地方仏らしく、素朴さのなかにも、凜とした気品がある。
ほかにも、魚籃観音、地蔵、不動明王と仏像の博覧会だ。
同じ敷地に、宿泊施設を備えた「己高庵」があり、日帰りの薬草風呂がある。
己高山一帯で採取された薬草がブレンドされ、大きな袋に入れられ、浴槽に浸かっている。
露天風呂に入って、古橋の集落と山野を見る。視界に入る山の奥に、洞窟がある。
関ヶ原の合戦に敗れた、石田三成が霧雨けぶる伊吹山中を逃れ、たどり着いたのが、
ご母堂の生まれ在所の、ここ古橋の地だ。
村人の世話を受けて、匿われたのがその洞窟である。
ところが、他所から養子に入った男が密告し、
あえなく三成は捕らえられ、京の三条川原にて斬首された。
それ以来この古橋の村では、他所から養子を迎えない、というしきたりが
少し前まで続いていたとか。律儀な湖北人らしい逸話である。