替え歌というのは、おそろしいものである。
よくできたそれを一度耳にすりこまれると、原曲を聴いたときに、どうしてもそっちに引っ張られるようになる。
運動会の定番行進曲『ボギー大佐』における、
「サル、ゴリラ、チンパンジー」
という「天才の仕事」としかいいようのないものから、「隣組」が「ドリフの大爆笑」などなど。
こういった「原曲越え」を果たしている名作は枚挙に暇がないが、日本にはさらなる、すはらしき替え歌文化が存在する。
それは前回(→こちら)も取り上げた、井上章一『妄想かも知れない日本の歴史』から。
その中で、ある歌の起源を調べてみた、という章がある。
われわれが、ふだんなにげなく聴いている曲は、さかのぼってみれば、意外なところにルーツがあることを語っているものだ。
全然ちがうものに変化したり、翻訳や伝達の過程で、元ネタと大きく乖離してしまったりしているケースもあったりして、その差異におどろくのである。
たとえば、卒業式の定番『蛍の光』といえば、元はスコットランド民謡で、別れでなく、新しい出会いの歌。
だから向こうでは、新年に歌われるんだけど、日本語の歌詞「蛍の光窓の雪」は、
「島の奥も、沖繩も、八洲の内の、護りなり」
と言う通り防人の歌。
つまりは、兵隊さんを送り出す内容だったりして「へえ」となる。
出会いどころか、下手すると、今生の別れを表している可能性もあるのだから、意味もほぼ真逆。
メチャクチャに、悲壮な空気ではないか。そんなんでいいのか、日本の卒業式。
ここでもうひとつ、歴史探偵井上章一が、その起源を探ったのが、日本人ならだれでも知っているあの名曲であった。それは、
「たんたん、たぬきのきんたまは〜」
大阪人である私の知っている歌詞は、
たんたんたぬきのきんたまはー
かーぜもないのにぶーらぶら
そーれをみていたおやだぬきー
かたあしあーげてぶーらぶら
かーぜもないのにぶーらぶら
そーれをみていたおやだぬきー
かたあしあーげてぶーらぶら
というものだったが、これが各地で、ちがうらしい。
しかも、井上氏によると、このメロディーは歌詞こそちがえど、北は北海道から南は沖縄まで、ほぼ日本全国だれでも知っているというのだ。
おお、これを国民歌謡と呼ばずして、なんと呼ぶのか。
このメロディーは、小学生の歌う唱歌にもとづいていて、1891年の『国民唱歌集』という本にも『夏は来ぬ』という題で収められている。
その詩的なタイトルからもわかるように、歌詞は「たんたんたぬき」ではない。
でもって、この『夏は来ぬ』のさらに元ネタというのが、なんと聖歌なのである。
「まもなくかなたの」というらしい。あるいは「流水天にあり」。
聖歌や賛美歌が、唱歌となって普及しているというのは、よくあることらしいが、それにしても宗教音楽からタヌキのキンタマとは、ものすごい振れ幅である。
神から下ネタ。これにはジーザスも笑うしかないだろう。
が、逆にいえばこの歌は、タヌキのキンタマを題材にしなければ、ここまで普及しなかったはずであり、ますます苦笑いであろう。
まさに唯一神、きんたまに敗れる! の巻。
前々回取り上げた『沈黙』のロドリゴ宣教師が聞いたら、どう思っただろうか。まあ、宗派がちがうみたいだけど。
ちなみに井上氏は、ある映画の一場面で、この曲が流れてくるのを聞いたことがあるそうな。
『バウンティフルへの旅』という作品で、人生に絶望した人が、最後に宗教で救われるという荘厳な内容だが、その救済シーンのクライマックスで流れるのがゴスペルソングによる『流水天にあり』であった。
つまりは大団円であり、キリスト教徒が涙を流して感動する中、井上氏の耳に聞こえてくるのは、
「たんたん、たぬきのきんたまは〜」
これはまた、オソロシイほどの腰砕けであったであろう。
想像してほしい。『ニュー・シネマ・パラダイス』や『ショーシャンクの空に』の挿入歌が。
『ゴッドファーザー』の愛のテーマが、あの『2001年宇宙の旅』のオープニングが、『スタンド・バイ・ミー』のエンディングが。
それらがすべて、「たぬきのきんたま」だったなら!
どんな全米が泣く映画でも、これが流れてきては、すべてがぶちこわしである。
替え歌制作者も、悪気はないとはいえ、罪なことをするものであり、ご愁傷様としか、いいようがない事件であると言えよう。