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続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『ポラーノの広場』341。

2014-05-18 07:13:44 | 宮沢賢治
 さて、私の頭はずんずん奇麗になり、疲れも大へん直りました。

 私はシと読んで、詞。
 頭はトウと読んで、禱。
 奇麗はキ・レイと読んで、記、霊。
 疲れはヒと読んで、悲。
 大へんはダイと読んで、題。
 直りましたはジキと読んで、自記。

☆詞(言葉)で禱(神仏に祈る)を記している。
 霊(死者の魂)の悲しみを題(テーマ)とした自記である。

『城』1627。

2014-05-18 06:36:51 | カフカ覚書
用意万端がととのった。フリーダも、まだ食事をしないで、Kを待っていてくれていたのだった。椅子は、二脚あった。Kとフリーダは、それに腰をかけてテーブルにつき、ふたりの助手は、足もとの教壇に座った。しかし、二人は、すこしもおとなしくしていないで、食事中も邪魔をした。

 椅子/Sessel→Sassel/隷属民、土地所有者。
 食事/gegessen(essen)→gegensonne/幻日。

☆すべては終っていた。フリーダ(平和)は、まだ幻日でないものを待っていた。現在の隷属民には強い影響力があった。Kとフリーダ(平和)は来世の隷属民を欺き、助手たち(脳、知覚)は文字を頼りにした。しかし、二人は決して汚点をかき乱さず、幻日を妨げなかった。

体力低下。

2014-05-17 06:56:12 | 日常
 元来、体力には自信がない。太っているため元気そうに見えるだけで、からきし根性がない。

 ずうっとそれで通してきたけれど、目に見えて劣化の症状が表れだした昨今、むしろ慌てて体力づくりに励んでいる節がある。その第一が「歩こう会」への参加で、ずいぶん助けられていると思っているけれど、そろそろ・・・退け時かな・・・とも。

 メンバーが「まだまだ!」と言ってくれているので、その気になっているけれど、そのメンバーに迷惑のかかるようなことがあっては申し訳ない。ただでさえ、全体の歩く速度が遅くなっているという嘆きが耳に入ってくると、身が縮む思いに駆られてしまう。

 他人からは明らかに体力減退どころか歩行困難な様子が見て取れるのに、自分ばかりは(大丈夫です)と見栄を張っているのではないか。

(もう団体行動は諦めよう、諦めるべきなのだ)と自分に言って聞かせる。淋しいけれど、これからは自分の意思で歩くことを心掛けよう。
 グーグルで確かめると、いつも通っている青少年会館までは6キロ弱、衣笠CCまでは3キロ、これを歩くと決めればいい。どこへ行くと言ったって全てバス通りなのだからどこで挫折してもバスに乗ればOK・・・なのにその踏ん切りがつかない。


 体力の低下・・・団体行動からは退かなくては・・・つけて加えて数年間が愉しんだイベント活動などもそろそろ遠慮すべき時期かもしれない。
 
 頑張るべきか、潔く断念すべきか・・・迷い多き年頃である。

『ポラーノの広場』340。

2014-05-17 06:32:48 | 宮沢賢治
「さうですね、ぢゃさう願ひませうか。」私も叮嚀に云ひました。なぜならこの人たちはみんな立派な芸術家だとおもったからです。


☆含んでいる詞(言葉)には底(基になるもの)があり、寧(落着いて)運/めぐらせている。
 訊/問いただし、留め、破/こわし、睨んで、述/自分の考えをのべ、加/重ねていく。

『城』1626。

2014-05-17 06:14:59 | カフカ覚書
フリーダはなくてはならない白いテーブル・クロースを教卓のうえにひろげ、花模様のコーヒー茶碗をならべ、さらにパンとベーコン、おまけにオイル・サーディンの罐詰まで出してきた。

 コーヒー/Kaffee→Kaff/無駄話。
 ベーコン/speck→spektakel/大騒ぎ、芝居。
 サーディン/Sardine→sardonisch/引きつったような笑い。
 罐詰/buchse→Buch/本。

☆フリーダ(平和)は、なくてはならない純白の思想をカタルシス(精神の純化作用)としてひろげ、先祖の美辞麗句を用いた無駄話をならべ、さらに誇示を芝居し、さらに引きつったような笑いの本まで出してきた。

執着心。

2014-05-16 06:21:18 | 日常
 生きて在るということは、即ち生命に執着しているということであり、丸っきりの無欲ではない。
 生まれたからには生きる権利があり、その主張は成長を促し、成果・発展の希望を生じさせる。一人ぽつねんと生きているわけではないので当然人との調和を要する。しかしそれは横並びの平等とはいかず、常に比較・競争の原理に曝され、ある者は優位に立ち、ある者は敗北という屈辱を味わうことになる。

 ただ不変の勝利も、永続的な敗北もなく、歴史は時空を塗り変えていく。人生という数十年の劇場でさえ平穏無事ではなく、様々な事件や困難が待ち構えている。けれど、それを乗り越える勇気、情熱が歓喜を生み、進化という波の前衛に立つこともあるかもしれない。
 経験を踏むと、その景色の一端が垣間見えることがある。しかし、見えている景色は世界全体ではない、ほんの僅かな視野を世界だと錯覚し、過信する判断は避けねばならないが、それが悪いという判断もまた不正確である。


 要するに、全ては曖昧なまま時間を乗り越えられずに進んでいく。
 時間に絡みつく執着心の軽重を計れないまま時間軸は限りなくゼロに近づいていくけれど、執着心の欲望には限りがない。(最期のその瞬間まで一縷の望みを抱くのではないか)

 執着心を捨てたように見える年配者がいるとしたら、それはそう見えるだけか、諦念や挫折に出口を塞がれているだけに過ぎない。人は最期まで執着心を道連れにするしかないのではないか。

 執着心は磨かなければ光らない石である。
 心に抱いた石から意思を生み育てるのは自分自身に他ならない。それを業と呼ぶのなら、業もまた存在証明の要である。

『ポラーノの広場』339。

2014-05-16 06:10:42 | 宮沢賢治
「いかゞでございます、たゞいまのお髪の型よりは、ネオリークの方がお顔と調和いたしますやうでございますが。」

 お髪はハツと読んで、発。
 型はケイと読んで、啓。
 方がはホウと読んで、法。
 お顔はfaceからfaith/信仰。
 調和はチョウ・ワと読んで、帖、話。

☆発(外に現われる)啓(人の眼を開いて理解させる)法(仏の教え)の信仰の帖(書きつけ)の話である。

『城』1625。

2014-05-16 05:33:55 | カフカ覚書
それもたのしかったが、同時に、フリーダがアルコール・ランプでコーヒーをわかしてくれているのが素直にうれしくて、しだいに冷たくなっていくストーヴにもたれて、フリーダのきびきびした、手なれた動作を眼で追っていた。

 もたれる/lehnend→Reine(Reinheit/純粋、清らか。
 ストーヴ/Ofen→offen/自由な。

☆無駄話(おしゃべり)も楽しかったが、同時にフリーダ(平和)の先祖の燃えるような活気ある激高も次第に消えていき、純粋な自由、敏捷で経験に富んだ様子にも感動した。

雨・・・。

2014-05-15 07:00:25 | 日常
 予報通りの雨の朝、今日の植物観察会はお流れになってしまった。
 こんなことなら、昨日の「歩こう会」をパスするんじゃなかったと、よぎる後悔。

 後悔しないように、できる事を一つづつ潰していく。そんな感覚でいろんなイベントに参加させてもらっている。(わたしに明日はない)という崖っぷちを歩いている昨今、何かにすがるようにイベント参加を希望している。


 要するに、自主性の欠如である。自分がこれをしよう!という明確なプラン、構図が描けない。何かの拍子に・・・犬も歩けば棒に当たる・・・そんなふうに風に吹かれるままを愉しんでいる。
 もちろん《それでいいのか?》という反問にも悩まされている。

 勾配のきつい滑り台を落ちていくほどに猶予がないわたしの残り時間。
(なにもしないよりはマシ)という自嘲。
 自分が自分であるための湧き上がるような感動が希薄で、何かに頼らざるを得ないのである。


 雨・・・雨の日は家事労働も休止状態、頬杖ついて机上の空論、妄想にのってぼんやり一日をやり過ごす。それでいけないわけがどこにある?立派にひねくれた年寄りの言い分である独り言。

 雨の日の空想はいいなあ、薄ぼんやりと不幸続きの人生を振り返り、慰めてみるのも一興。植物観察会中止の無念を、今日の日が雨で本当に良かったと思える一日に塗り替えてみたい。・・・してみると、結構前向きなわたし?(笑)

『ポラーノの広場』338。

2014-05-15 06:45:32 | 宮沢賢治
「うん。僕もさう思ふね。」も一人も同意しました。私の係りのアーティストがおれもさうおもってゐたといふやうにうなづいて、私に云ひました。


☆僕(わたくし)の旨(考え)が逸(かくれている)図りごとである。
 導く異なる詞(ことば)の糸(つながり)は、試みの薀(奥義)である。