goo blog サービス終了のお知らせ 

続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

いつまで経っても・・・。

2014-05-21 06:43:57 | 日常
 いつまで経っても、どこへも行かれない。どこへも行く気がしない陰鬱な性格である。

 人頼み、人が連れて行ってくれるなら後ろに着いて行きましょうという考え。自主性の欠片もないままお婆さんになってしまったわたし。そのうちには手を引かれ「大丈夫?」などと支えられての移動になるかもしれない。

 どこへでも気軽に単独行動ができる息子・・・あの子は本当にわたしの子なのだろうか、とさえ疑いたくなる。しかし、考えてみると、それが普通であって、わたしは異常なほどの気鬱症であるにすぎない。淋しく孤独な転落人生・・・生きているのが不思議なほどの内向、陰気・・・。


 これではいけない!自分を鼓舞し、叱咤激励する。
 昔はともかく、今はあらゆるイベントが予定されているので、申し込みさえすれば、簡単に自分の背中を押してくれる。《行かねばならない、なぜなら他でもない自分が申し込んだのだから》という風に無理やり自分を動かしている。

 たとえば美術に関心があるといっても、展覧会に自ら足を運ぶことはまず皆無。(行こう、行こう)としている内に会期は終っているという具合。本当に美術に関心があるのだろうか、(ないのかもしれない)無愛想というより表情のない凍りついた心情をむしろ悟られないように愛想笑いをしている気がしなくもない。

 にもかかわらず、どこかで美術という範疇に未練がある。

 人生という神からの預かり物(時間)を粗末にしてはいけない。
 わたしのXデイは確実に迫っている。わたしのすべての行動はXデイを晴れやかに迎えるための苦慮に尽きる。おかしな論理ではある、けれど無味乾燥な人間であるわたしは、おかしな逆説に身を投じることで微かな安らぎを覚えている。

 

『ポラーノの広場』344。

2014-05-21 06:30:06 | 宮沢賢治
 びっくりして私はそっちを見ました。アーティストたちもみな馳せ集まったのです。それこそはひげを片っ方だけ剃ったままで大へん痩せては居りましたが、しかしたしかにそれはデステゥパーゴです。わたくしは占めたとおもひました。デステゥパーゴはわたしなぞ気がつかずにまだ怖ろしさうに顔をゆがめてゐました。


☆志(考え)が現われ、知(心に感じとること)を修/おさめる。
 遍(もれなくいきわたる)法(仏の教え)の態(ありさま)は、題(テーマ)の総ての意(考え)である。
 宣(広く知らせる)ものは、普く信仰である。

『城』1630。

2014-05-21 05:58:19 | カフカ覚書
こんなやりかたをしていたのでは、いつまでたっても連中を厄介ばらいすることはできないであろう。ある程度はきびしく締めつけ、彼らの態度にほんとうにふさわしいような処置をとれば、彼らをおとなしくさせるか、あるいは、このほうがさらに実現性が強く、また、いっそうありがたいのだが、彼らがこの勤めがいやになって、ついには逃げだすようにしむけることぐらいはできるかもしれない。


☆この方法は、人として決して汚点ではない。先祖の人たちの勢力はある程度は取り去ることが出来る。(人として)ふさわしいような死の扱い、おとなしくするか、小舟を嫌うかして、ついには逃げ出すようにしむけることができるかもしれない。

無理は禁物。

2014-05-20 06:35:45 | 日常
 膝の痛みに不安を覚え、総合病院で診てもらったら「レントゲンで見るかぎり軟骨が3/5程度になっているけれど、支障はないでしょう」といい、痛み止めだけの処方だった。

 あれから二年・・・症状に変化はない、と言うか相変わらずである。
「O脚になるまで、痛みを感じない人もいるんですがねぇ」と医師。
 歩くと痛むといい、長くは歩けないという人がいるけれど、わたしの場合は、正座もしくは立ったり座ったりに力が要るし、ぎこちなくなるけれど、長く歩く分には痛まない。むしろ快調だと錯覚(?)したりする。

 けれど、治るという希望は持てない。悪くなるのを押さえる、という希望的観測があるのみである。
 杖を付いている人を見かけると、(いずれ近い未来のわたし)だと、共感、仲間意識のような感情が走る。確実にやって来る未来のわたしを否定できない。


《まさか、気のせいなのよ》と、自分の状態を疑ってみることがある。
 無理に正座をし、膝をついて物を取ろうと数歩進んだところで、激痛が!
 思わず、やっぱり・・・正真正銘の膝痛患者だと悟る。

 無理は禁物、無理をして鍛えれば治るというレベルではないらしい。打てば響く心地よさは微塵もなく、砕け散る劣化した古い木材・・・それが今のわたしだと自覚せねばならない。

 今の自分を知り、ありのままのわたしになって生きていく。(無事にこの現世をクリアーできますように!)

『ポラーノの広場』343。

2014-05-20 06:19:38 | 宮沢賢治
 すると俄かに私の隣りの人が、
「あ、いけない、いけない、押へてくれたまえ。畜生畜生。」とひどく高い声で叫んだのです。


☆我(わたくし)の詞(ことば)は輪(順番に回る)図りごとがある。
 往(人が死ぬ)の地区(一定の地域)の星の講(はなし)である。
 照(普く光があたる=平等)の教(神仏のおしえ)である。

『城』1629。

2014-05-20 05:56:40 | カフカ覚書
Kは、彼らのことなど気にもとめていなかったが、フリーダが吹きだしたので、やっとふたりの態度に気がついた。彼はテーブルのうえにおかれた彼女の手にやさしく自分の手をかさね、小声で、なぜこの連中のことをいろいろと大目に見てやるのか、いや、それどころか、彼らのけしからん不作法までもやさしくみとめてやるのか、とたずねた。


☆Kの悲哀は彼女にはなかったが、禁錮へのフリーダ(平和)の復讐に気づいた。彼は国家に対する企みを隠していたが、なぜ死の小舟を取り調べるのか、それどころか悪い習慣を引き受けるのかとたずねた。

『広瀬美帆展』

2014-05-19 07:34:47 | 美術ノート
 この感じ・・ポップと一言で片づけられない柔らかい奥行き・存在感がある。

 被写体、描かれたものが主張してくる不思議なリズムが静かで透明な空気感を醸し出し、モチーフが画面の背景と一体になり語りだすような非現実的な世界を垣間見せてくれる。

 形態と色彩の妙、この歪み・このバランスでなければならないという作家の意思が、作品を決定付けている。色と形の数え切れない組み合わせの中から発言力を持つ輝く一瞬を切り取る、あるいは探求することで作品が立ち上がる。その達成感、矛盾を大いなる肯定に変換させる術、作家の感性である。
 選択された色面や線はモチーフの持つ全体像をそぎ落としている。こうあらねばならぬという観念的な通念を無視し、作家自身の《こうあらねばならぬ》という選択に執着している。ある意味、平凡な鑑賞者への挑戦とも受け取れる作品群は、しかし、鑑賞者をやわらかい心地にさせる。
 この穏やかな空気は一種の殺気に裏づけされた安らかさなのかもしれない。

 精緻な描き込みとは対照的な平板とも思える作風なのに、脆弱とは裏腹な強さがある。いつまでも心に残る風のような優しさは、記憶の中に過ぎる風のニュアンスと換言してもいいかもしれない。

 やわらかな作品に、むしろ強靭な精神の在りようを垣間見、見る者をやさしい記憶に誘い出す魔力がある。記憶と言ったけれど、もしかしたら見慣れたモチーフの中の見たことのない幻想の側面に気づかせてくれたのかもしれない。
(特集『広瀬美帆』/横須賀美術館にて)

『ポラーノの広場』342。

2014-05-19 07:04:32 | 宮沢賢治
これなら、今夜よく寝んで、あしたは大学のあの地下になった標本室で向ふの助手といちにち暮らしても大丈夫だと思って気もちよく青い植木鉢や、アーティストの白い指の動くのや、チャキチャキ鳴る鋏の影をながめて居りました。


☆金(尊い)也(かな)、真の態(ありさま)を学び知(心に感じること)を解(さとる)は。
 表すのは、翻(形を変えてうつす)の質(内容)の講(はなし)である。
 叙べる趣(志すところ)の簿(ノート)には、題(テーマ)の状(ありさま)が普く詞(ことば)により記されている。
 衝(重要なところ)である蝕(〔天〕食/死の入り口)を黙している。
 導かれる冥(あの世)の教(神仏のおしえ)を映(うつす)意(考え)である。

『城』1628。

2014-05-19 06:15:00 | カフカ覚書
食べるものは十分もらっていて、それをまだ食べおわってもいないのに、ときどき立ちあがっては、テーブルのうえにまだたくさん残っているかどうか、そして、まだいくらか分けまえにあずかれるかどうかとのぞきこむのである。


☆幻日は豊かで、きっと永遠に終わることがないのに、ときどき荒地に置かれたことに(叫びを)あげ、まだ死に関し、まだいくらか期待できるかどうかとのぞきこむのである。

♪ありのままで~♪

2014-05-18 07:25:43 | 日常
 MayJさんが歌う『Let It Go~ありのままで』

 美しい歌声は、わたしの低く淀んだ胸を浄化してくれるような気分にさせる。《ありのままで~》ああ、微妙に自分をごまかしながら生きているような気がしなくもない日常。
 
 全くの裸、自分をさらけ出すなんて出来ない。さらけ出すこともない、沈黙もまた真実なのだからと言い訳をする。

 ありのままの自分を思うと、劣等感に打ちひしがれてしまう。(そんなことはないよ、胸を張って前を見て・・・そう、前だけを見て進んでいけばいいんだよ)と自分の中に聞こえる声。

 自分を偽ってはいないけれど、赤裸々というのでもない。恥多き人生を今さら振り返る必要もない。いずれ霧消していく人生に粉飾の見栄もないけれど、刻苦を語る必要もない。

 ありのままのわたしになる~自分の気持ちに素直に生きていく。67歳にもなってまだこんな繰言を言うなんて若い人から見たらおかしいかもしれない。
 でも幾つになっても、今日の日は未知であり、新しい時間を生きる自分は常に迷い多き選択を迫られている。

♪ありのままに~♪ この詞はわたしに一歩踏み出す勇気を与えてくれている。(が、がんばろうと!)