膝の痛みに不安を覚え、総合病院で診てもらったら「レントゲンで見るかぎり軟骨が3/5程度になっているけれど、支障はないでしょう」といい、痛み止めだけの処方だった。
あれから二年・・・症状に変化はない、と言うか相変わらずである。
「O脚になるまで、痛みを感じない人もいるんですがねぇ」と医師。
歩くと痛むといい、長くは歩けないという人がいるけれど、わたしの場合は、正座もしくは立ったり座ったりに力が要るし、ぎこちなくなるけれど、長く歩く分には痛まない。むしろ快調だと錯覚(?)したりする。
けれど、治るという希望は持てない。悪くなるのを押さえる、という希望的観測があるのみである。
杖を付いている人を見かけると、(いずれ近い未来のわたし)だと、共感、仲間意識のような感情が走る。確実にやって来る未来のわたしを否定できない。
《まさか、気のせいなのよ》と、自分の状態を疑ってみることがある。
無理に正座をし、膝をついて物を取ろうと数歩進んだところで、激痛が!
思わず、やっぱり・・・正真正銘の膝痛患者だと悟る。
無理は禁物、無理をして鍛えれば治るというレベルではないらしい。打てば響く心地よさは微塵もなく、砕け散る劣化した古い木材・・・それが今のわたしだと自覚せねばならない。
今の自分を知り、ありのままのわたしになって生きていく。(無事にこの現世をクリアーできますように!)
あれから二年・・・症状に変化はない、と言うか相変わらずである。
「O脚になるまで、痛みを感じない人もいるんですがねぇ」と医師。
歩くと痛むといい、長くは歩けないという人がいるけれど、わたしの場合は、正座もしくは立ったり座ったりに力が要るし、ぎこちなくなるけれど、長く歩く分には痛まない。むしろ快調だと錯覚(?)したりする。
けれど、治るという希望は持てない。悪くなるのを押さえる、という希望的観測があるのみである。
杖を付いている人を見かけると、(いずれ近い未来のわたし)だと、共感、仲間意識のような感情が走る。確実にやって来る未来のわたしを否定できない。
《まさか、気のせいなのよ》と、自分の状態を疑ってみることがある。
無理に正座をし、膝をついて物を取ろうと数歩進んだところで、激痛が!
思わず、やっぱり・・・正真正銘の膝痛患者だと悟る。
無理は禁物、無理をして鍛えれば治るというレベルではないらしい。打てば響く心地よさは微塵もなく、砕け散る劣化した古い木材・・・それが今のわたしだと自覚せねばならない。
今の自分を知り、ありのままのわたしになって生きていく。(無事にこの現世をクリアーできますように!)