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続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

無理は禁物。

2014-05-20 06:35:45 | 日常
 膝の痛みに不安を覚え、総合病院で診てもらったら「レントゲンで見るかぎり軟骨が3/5程度になっているけれど、支障はないでしょう」といい、痛み止めだけの処方だった。

 あれから二年・・・症状に変化はない、と言うか相変わらずである。
「O脚になるまで、痛みを感じない人もいるんですがねぇ」と医師。
 歩くと痛むといい、長くは歩けないという人がいるけれど、わたしの場合は、正座もしくは立ったり座ったりに力が要るし、ぎこちなくなるけれど、長く歩く分には痛まない。むしろ快調だと錯覚(?)したりする。

 けれど、治るという希望は持てない。悪くなるのを押さえる、という希望的観測があるのみである。
 杖を付いている人を見かけると、(いずれ近い未来のわたし)だと、共感、仲間意識のような感情が走る。確実にやって来る未来のわたしを否定できない。


《まさか、気のせいなのよ》と、自分の状態を疑ってみることがある。
 無理に正座をし、膝をついて物を取ろうと数歩進んだところで、激痛が!
 思わず、やっぱり・・・正真正銘の膝痛患者だと悟る。

 無理は禁物、無理をして鍛えれば治るというレベルではないらしい。打てば響く心地よさは微塵もなく、砕け散る劣化した古い木材・・・それが今のわたしだと自覚せねばならない。

 今の自分を知り、ありのままのわたしになって生きていく。(無事にこの現世をクリアーできますように!)

『ポラーノの広場』343。

2014-05-20 06:19:38 | 宮沢賢治
 すると俄かに私の隣りの人が、
「あ、いけない、いけない、押へてくれたまえ。畜生畜生。」とひどく高い声で叫んだのです。


☆我(わたくし)の詞(ことば)は輪(順番に回る)図りごとがある。
 往(人が死ぬ)の地区(一定の地域)の星の講(はなし)である。
 照(普く光があたる=平等)の教(神仏のおしえ)である。

『城』1629。

2014-05-20 05:56:40 | カフカ覚書
Kは、彼らのことなど気にもとめていなかったが、フリーダが吹きだしたので、やっとふたりの態度に気がついた。彼はテーブルのうえにおかれた彼女の手にやさしく自分の手をかさね、小声で、なぜこの連中のことをいろいろと大目に見てやるのか、いや、それどころか、彼らのけしからん不作法までもやさしくみとめてやるのか、とたずねた。


☆Kの悲哀は彼女にはなかったが、禁錮へのフリーダ(平和)の復讐に気づいた。彼は国家に対する企みを隠していたが、なぜ死の小舟を取り調べるのか、それどころか悪い習慣を引き受けるのかとたずねた。