続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

若林奮 1-5-8振動尺試作Ⅱ

2019-11-07 07:03:56 | 美術ノート

   1-5-8振動尺試作Ⅱ

 振動というのは空気を媒体として現れる現象である、ゆえに視覚化はあり得ない。
 ただその性質として繰り返されるので、波線及びその長さが測定可能になるだけである。だから収束も無限とも無縁である。

 手に取り得ない、触覚に拠らないものを物質に置換する。これはある意味自由であると同時に、振動を熟考するということは、(有るが見えないもの)に対する挑戦でもある。
 質感の伴わないものを質的変換する・・・空論との断定を阻む作業は、哲学の範疇ではないか。哲学もまた精神論であれば、質量を問わない。

 この難題を視覚化する、であれば、条件を踏まえたうえであらゆる想定が可能になる。円でも四角でも鋭角鈍角・・・ただ振動には揺れの振幅は外せないので、長さは基本条件となる。その長さは連続する現象であれば、時間が測れるということでもある。

 この振動尺試作Ⅱは連続を凝縮し、人工的に留め具で抑えられている。一つの時代の断片の提示の模型だと解釈したい。

 写真は『若林奮 飛葉と振動』展・図録より 神奈川県立近代美術館


『忘れえぬ人々』28.

2019-11-07 06:47:34 | 国木田独歩

「もう店の戸を引き寄せて置きな」と主人は怒鳴って、舌打ちをして、
「又た降って来たやがった」
 と独言のようにつぶやいた。なるほど風が大分強くなって雨さえ降りだしたようである。


☆転(ひっくり返る)拠(よりどころ)が隠れてる。
 記の質(内容)の趣(ねらい)の図りごとは、度(悟りの世界/仏の世へ導き入れること)である。
 命を絶ち惰(崩れ落ちる)幽(死者の世界)の講(話)である。
 鬼(死者)の髑(風に曝され白骨化した頭の骨)が現れる。
 章(文章)の態(ありさま)は普く他意であり、粉(入り乱れて区別がつかなくなる)。
 教(神仏のおしえ)の有る講(話)である。


『城』3297。

2019-11-07 06:31:48 | カフカ覚書

ところで、Kは、この従僕の不撓不屈なところがいたく気に入った。部屋との戦いにおいても(Kは、部屋の住人たちの顔を見ることができなかったので、これは部屋との戦いであるという気がしきりにするのだった)、この従僕は、一歩もあとへ退かなかった。


☆この従僕の譲歩しないところが気に入った。(Kはテーマ/主題との戦いにおいても住人たちをほとんど見ることができなかったのでテーマ(主題)との戦いであるという気が度々していたので。この従僕は後に退場かなかった(小舟をそのままにしていた)。