続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

若林奮 振動尺試作Ⅰ-5-1~1-5-7②

2019-11-06 07:08:13 | 美術ノート

 試作は推定にすぎないが、振動における基準、長さの単位は論拠である。
 振動は繰り返される波として測られるが、その単位の種類ということだろうか。

 三本の集合は共鳴だろうか、突先が丸く他のものとは違っている。曲がっているのは必ずしも滑らかではなく他の要素が加わることなのだろうか。
 各種の条件を満たすもの、しかし総じて線条である。前へ進むということであり、何かにぶつかって跳ね返る振動の線条もあるに違いない。(例えば電波でも交流と直流がある)

 振動、つまり目に見える存在を包囲する空中の揺れはネガとポジの関係にあり、振動を把握することは存在を浮上させることに他ならない。見えないものは《無》ではないことの証明である。

 風は熱によって生じる現象であり、振動にはすべて根拠がある。地球創世以来のあらゆる振動(地殻変動など)は、太陽と地球の関係に因している。

 ここにある7つの振動尺試作、総ての振動は近似しているということだろうか。


 写真は『若林奮 飛葉と振動』展・図録より 神奈川県立近代美術館

 


『城』3296。

2019-11-06 06:44:04 | カフカ覚書

 こうした観察で道草を食いながらも、Kは、たえずまた従僕のほうにもどっていった。彼が以前に従僕一般について聞いていたこと、毎日なにもしないで気らくな生活をし、尊大にかまえているというような話は、この従僕にはほんとうに当てはまらなかった。従僕たちのなかには、例外もあるらしかった。それとも、このほうがほんとうかもしれないが、従僕と言っても、さまざまな種類にわかれているらしかった。というのは、Kが気づいたところでは、いろんな仕事の区分があったからである。彼は、これまでは、そんな持場の違いがあろうなどということはほとんど夢にも考えていなかったのである。


☆観察の推移からすべて離れて、Kは常に幾たびも従者の方へ戻っていった。コレラのことは従者(死者)には全く当てはまらなかった。しかしながら一般に従者(死者)は無為であり、快適に生きていた。尊大だというのは、従者の中には多分別の人もおり、ここでは、いかにKがたくさんの区分を記しても見分ける改正はほとんどできないということだった。