労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

なぜ安保50周年記念か?

2010-06-04 02:54:10 | Weblog
 われわれは60年安保反対闘争の結果生まれたのは、“新左翼”と称する小ブルジョア急進主義運動であり、この運動は70年代、80年代にそのすべての可能性を汲みつくして“サナギ”になった。

 “新左翼”の狭い限界を乗り越えようとしたわれわれ社労党もまた行き詰まって“サナギ”になった。

 といったのだが、マルクス主義同志会はそれを認めつつも、「この時ブントがあげた社会党、共産党の変わる新しい労働者党をつくろう」というスローガンを継承しようというのだから、労働者にいっていることがよく分からない、と言われている。

 実際、ブントが社会党、共産党に代わる新しい労働者の党をめざしていたのであれば、彼らのことを小ブル急進主義運動などとよぶ必要はないわけであろう。

 マルクス主義同志会は一方において、ブントを小ブル急進主義と批判しながら、他方において自分たちはブントを継承している(ブントの運動に何か積極的なものがあった)というのであるというのであるから、混乱しているのである。

 そしてこの混乱というよりも中途半端さがわれわれが“サナギ”になってしまった原因であったのである。

 いうまでもなく、当時の社会主義、共産主義と呼ばれていた運動はブントを含めてすべてスターリン主義の影響を受けていた。

 われわれはそれを社会主義とは無縁であると断罪したのであるから、自分たちの社会主義は、何もないゼロ(というよりもマイナス)のところから出発するより他はなかったのである。

 ところが、マルクス主義同志会は、50年たった今でもブントに対して未練タラタラであり、一人で茫漠たる砂漠へ向かう決意はなかったし、今もそれはない。


首相就任オメデトウございます

2010-06-04 01:32:46 | Weblog
 74年に市川房江氏(愛知県出身)が参議院選挙の全国区に立候補した。

 われわれ(社労党の前身のマルクス主義労働者同盟)も、新左翼から足を洗って、始めて参議院選挙の全国区に出馬した。(この時のわれわれの候補者は“江波進一”こと故池尾正勇哉氏であった。池尾氏は先日、亡くなられたそうで、葬式にも伺えず誠に申し訳なく思っております。)

 一応、新左翼から足は洗ったということになっているが、知立市では三里塚闘争の戸村一作氏(彼もこの時、参議院全国区から立候補していた)と派手な論争(相手にいわせれば選挙妨害)をやったり、一宮市あたり(?)では市川房江氏の宣伝カーから“ある男”が出てきて「市川さんが怖がっている」と文句を言いに来たり(相手にいわせれば選挙妨害)していた。

 候補者や宣伝カーを見ると、相手かまわず、宣伝カーを乗り付けて“襲撃”(われわれは論争のつもりだった)するので、他の候補者のみなさんには相当嫌われていた。

 ところでこの時、市川房枝氏の宣伝カーから降りてきて、われわれのところへ「やかましい、選挙妨害だ」と文句を言いに来た“ある男”、何となく見覚えがありますね。

 誰とはいいませんけど、もちろん二度目はありません。だからあの時の“イラ菅”と“イラ横”の激闘を期待する人は必然的に失望するでしょう。当時、われわれはみんな二十歳前後の“新左翼くずれ”の“くそガキ”で行儀作法も何も知らない、ただ革命のために命をかけるんだ、労働者階級解放のために生きるんだ、という燃えるような情熱だけにつき動かされて、参議院選挙に参加していた。

 もっとも、首相になれないという可能性もあったりして・・・・