われわれは60年安保反対闘争の結果生まれたのは、“新左翼”と称する小ブルジョア急進主義運動であり、この運動は70年代、80年代にそのすべての可能性を汲みつくして“サナギ”になった。
“新左翼”の狭い限界を乗り越えようとしたわれわれ社労党もまた行き詰まって“サナギ”になった。
といったのだが、マルクス主義同志会はそれを認めつつも、「この時ブントがあげた社会党、共産党の変わる新しい労働者党をつくろう」というスローガンを継承しようというのだから、労働者にいっていることがよく分からない、と言われている。
実際、ブントが社会党、共産党に代わる新しい労働者の党をめざしていたのであれば、彼らのことを小ブル急進主義運動などとよぶ必要はないわけであろう。
マルクス主義同志会は一方において、ブントを小ブル急進主義と批判しながら、他方において自分たちはブントを継承している(ブントの運動に何か積極的なものがあった)というのであるというのであるから、混乱しているのである。
そしてこの混乱というよりも中途半端さがわれわれが“サナギ”になってしまった原因であったのである。
いうまでもなく、当時の社会主義、共産主義と呼ばれていた運動はブントを含めてすべてスターリン主義の影響を受けていた。
われわれはそれを社会主義とは無縁であると断罪したのであるから、自分たちの社会主義は、何もないゼロ(というよりもマイナス)のところから出発するより他はなかったのである。
ところが、マルクス主義同志会は、50年たった今でもブントに対して未練タラタラであり、一人で茫漠たる砂漠へ向かう決意はなかったし、今もそれはない。
“新左翼”の狭い限界を乗り越えようとしたわれわれ社労党もまた行き詰まって“サナギ”になった。
といったのだが、マルクス主義同志会はそれを認めつつも、「この時ブントがあげた社会党、共産党の変わる新しい労働者党をつくろう」というスローガンを継承しようというのだから、労働者にいっていることがよく分からない、と言われている。
実際、ブントが社会党、共産党に代わる新しい労働者の党をめざしていたのであれば、彼らのことを小ブル急進主義運動などとよぶ必要はないわけであろう。
マルクス主義同志会は一方において、ブントを小ブル急進主義と批判しながら、他方において自分たちはブントを継承している(ブントの運動に何か積極的なものがあった)というのであるというのであるから、混乱しているのである。
そしてこの混乱というよりも中途半端さがわれわれが“サナギ”になってしまった原因であったのである。
いうまでもなく、当時の社会主義、共産主義と呼ばれていた運動はブントを含めてすべてスターリン主義の影響を受けていた。
われわれはそれを社会主義とは無縁であると断罪したのであるから、自分たちの社会主義は、何もないゼロ(というよりもマイナス)のところから出発するより他はなかったのである。
ところが、マルクス主義同志会は、50年たった今でもブントに対して未練タラタラであり、一人で茫漠たる砂漠へ向かう決意はなかったし、今もそれはない。